この惑星の終わりまで

水底 眠

第1話


 ある町に、ヨルゲンという男がいた。


 両親ははやくに亡くなり、兄弟もおらず、親戚の顔など誰一人知らず、友人も恋人も妻もおらず、世間話をする相手さえいなかった。

 噂では、ヨルゲンは不思議なナイフを持っていて、それを誰にも盗まれないために誰とも仲良くしないのだと言われていた。


 そんなヨルゲンは、毎晩のように酒場で酒を飲んでいた。いつも一人でふらりと酒場に来て、一人で静かに飲んで帰っていく。誰がどう見ても酒や食事を楽しんでいる風ではなかった。


 周囲の人に話しかけられるのを待っているのだろう、と気を利かせた者が話しかけたこともあったが、ヨルゲンはそっけない態度を取るばかりだった。

 不思議に思った者が、どうして酒場へ来るのか尋ねると、取引相手を待っているとヨルゲンは言った。


 ある晩、いつものようにヨルゲンが酒を飲んでいると、小柄な女の子が冷たい空気と一緒に酒場に入ってきた。

 女の子は、シャシュティという名前だった。彼女は世に並ぶものがいないほどかわいらしい顔立ちで、髪の色はきらめく金色だ。


 シャシュティはいかにも酒場に不慣れな様子で、酔っぱらった大人たちの間をきょろきょろしながら進んでいく。


 そんなシャシュティの足元には、アカギツネのフーゴがひっついていた。

 フーゴはシャシュティと同じで酒場の人の多さにすっかりびびって小さくなっていたが、ふさふさの尻尾だけはさらに膨らんでいた。


 シャシュティは、ヨルゲンを見つけると、ふらふらしている酔っ払いたちを避けながら近づいた。


「こんばんは。あなたがヨルゲン? あなたはぼくの探し物の在処を知っていると聞いた」

 ヨルゲンの目が刃物のようにぎらりと光った。

「お嬢さん。ここは酒場だ、おとぎ話を信じる子どもの来るところじゃあない」

「おとぎ話なんて信じない。死のナイフは実在するんだろう?」


 せせら笑うヨルゲンは、テーブルの上にシャシュティが置いたつややかな真珠を見て目の色を変えた。

 それは遠い海で採れる黒い真珠で、このあたりではめったにお目にかかれない。たいていは、王様や王妃様の手元にあるもので、たった一粒でも途方もない価値があった。


 さらにもうひと粒がシャシュティの手の中から現れて、テーブルの上をころころと転がる。ヨルゲンは黒真珠が誰の目にも触れないうちにさっとポケットにしまいこむと、声をひそめて言った。


「どこの誰だが知らないが、ずいぶんと物騒なものを探しているらしい」

「じゃあ、やっぱり」

「ああ、そうだ。おれはあのナイフの在処を知っている」


 シャシュティはごくりとつばを飲み込んだ。フーゴも大きな耳をぴんと立てた。


「教えてほしい。ぼくはその魔法のナイフが欲しいんだ」

「なぜあんな恐ろしいものを求める? 誰かのお遣いか?」

「違う。ナイフが欲しいのはぼくだ。死なせてあげたい女の子がいるんだ」


 少女らしからぬこの答えには、ヨルゲンもぎょっとした。


 ヨルゲンはシャシュティの言葉の真意を確かめるように深い空の瞳をじっと見つめた。

「見返りに何をもらえるんだ? 真珠二つぽっちじゃ釣り合わない」

「あなたが欲しいものならなんだっていいぜ。金や銀だって、城に収まりきらないほど持っているんだ」

 シャシュティは服の袖を引き上げて、幾重にもつけた金の腕輪を見せた。それははっと息を飲むほど見事な品だった。

 それを見て、ヨルゲンはほらのようなシャシュティの言葉を信じることにした。


「では、報酬はたっぷりといただくとしようか。お嬢さん、名前は?」

「……シャシュティだ」

「シャシュティ、明日の朝、石橋で落ち合おう。死のナイフのある場所まで案内する」


 酒場を出ると、フーゴはわざとらしい大きなため息をついた。

「シャシュティが子どもだからって舐めやがって! 在処を知ってるんならさっさと教えてくれればよかったのさ」


 フーゴは小心者だが、シャシュティと二人きりの時だけは大口をたたく。シャシュティはさっきまでの小さくなっていたフーゴの姿を思い出して、くすっと笑った。


「はやく宿に帰ろうよ、フーゴ。すっかり夜遅くなってしまった。ぼくはすぐにでもこの体をきれいにしてベッドで眠りたいんだ。きみだってそうだろう?」


 宿に着くと、シャシュティは肌触りの良い布を人肌程度に温めた水で濡らして、体をすみずみまで磨くように拭いた。それから、綺麗になったミルク色の肌に、ほんのり甘い香りのするクリームを塗りこんだ。最後に、腰まである髪を丁寧にくしけずってつやつやにした。


 旅の鞄の三分の一は、身だしなみを整える品で埋まっている。シャシュティの小さな体には鞄が重くて堪らないけれど、お陰で手のひらにまめができてしまいそうだけれど、一つとして余分なものは入っていなかった。


「毎晩よくやるなあ」とフーゴがあくびをかみ殺しながら言った。

 フーゴはキツネらしく体中の汚れをさっと落としただけでベッドに入っていた。


「きみもやればいいさ。せめて体の毛はくしでとかすべきだ、きっとご自慢の毛並みが輝くぜ」

「いいや、結構だね。人間と違ってキツネはそんなことしなくたっていいのさ。おれはもう寝るからな、おやすみシャシュティ」


 フーゴは途中までシャシュティが自分の手入れをするのを眺めていたが、飽きて眠ってしまった。


 一人と一匹で一緒に使うベッドの真ん中で、両手両足を広げて気持ちよさそうに眠るフーゴを見て、シャシュティはまたくすっと笑った。

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