ツツジの咲く道で、クロアゲハと

狂う!

序章∶羽化を待つ繭

わたしには、生まれた理由がない。


そんなことを思ったのは、もっと後になってからだけど……

たぶん、最初からどこか欠けてた。

泣いても、お腹がすいても、心がざわめくことはなかった。

笑ってもらっても、撫でられても、あたたかいと思ったことはない。


ただ、眺めてるだけ。

この世界を、音のない映像みたいに。

テレビの向こうの景色みたいに。


 


周りはいつも、忙しそうに動いてた。

お母さんは優しかったと思う。

ごはんを作ってくれて、着替えを手伝ってくれて。

でも、わたしにはそれが「優しさ」だと理解できなかった。

だから、お礼も言えなかったし、笑顔も返せなかった。


そのうち、言われるようになった。


「ロアちゃんって、変わってるね」

「なんかこわいよ」

「お人形さんみたい」


それって、褒められてるの? 嫌われてるの?

感情の意味が分からないから、言葉だけが空中に浮かんだまま落ちてこない。



幼稚園の時間も、遠かった。

お絵描きも、歌も、お遊戯も、ただ見てるだけ。

みんなと輪に入らず、窓の外を見ていた。

風にゆれる木とか、鳥の影とか、雲の流れ。

そういうもののほうが、人よりよっぽど分かりやすかった。


先生は根気強く話しかけてくれた。

「ロアちゃんもやってみよう?」って。

でもわたしは、首を横に振るしかできなかった。

参加したくないわけじゃない。ただ、どうしたらいいか分からなかっただけ。


「……ほんとに、感情がないのかもね」

小声でそう言った先生の目が、初めて「他人」を見る目だった気がする。

それも、どこか安心した。

やっと、わたしが世界の外側にいるって、認めてもらえた気がして。


 


──それでも、時間は過ぎていく。


体は大きくなった。

人と会う場所も増えた。

でも、感情だけはずっと育たなかった。


泣いたふりも、笑ったふりも、できるようにはなった。

けど、それはまねであって、気持ちじゃない。


ごめんね。

誰かが「一緒に遊ぼう」って言ってくれても、

誰かが「今日の絵、すごく上手」って褒めてくれても──

わたしの中には、ずっと、何もなかった。


そうやって静かに、誰のものにもなれず、誰の心も持たず、

「ロア」という名前だけを抱いて、わたしは今日まで生きてきた。


 


だからきっと──

あの出会いが、わたしの人生そのものになるって、最初から決まってたんだと思う。


わたしという空っぽの器に、初めて何かを注いでくれた人。


──まだ、その人は知らない。

その蝶の折り紙ひとつで、わたしの全部を決めてしまったことを。


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