第1章第2話『主様と猫耳、運命の抱擁』

《執務室にて》


 扉を開けると、そこは重厚な家具が並ぶ、館の心臓部だった。大きな窓からは、異世界の満月が差し込み、机に座ったベリトの影を長く伸ばしていた。


 愛梨が椅子に座ると、アイム・アイニは興奮した様子で口を開いた。「主様、まずは自己紹介っス!わたくし、アイム・アイニ。ベリトさんの次に主様の命綱を守る、優秀な執事っスよ!」


 ベリトは静かに紅茶を淹れながら、アイム・アイニを制した。「アイム・アイニ、主様が緊張されています。まずは、主様が抱えているであろう疑問からお答えしましょう。」


 愛梨は頷き、口を開いた。「あの、私たちが今いる『異世界』って、どうなっているんですか?そして、どうして天使と悪魔は争っているの?」


 ベリトは、カップを愛梨の前に差し出し、一息ついて話し始めた。


「愛しい主様。ここはかつて、天使によって絶対的な秩序が敷かれていた世界でございます。彼らは**『純粋な美しさこそが、世界の真の秩序である』と信じ、不純な感情を持つすべての種族を……ええ、我々悪魔執事だけでなく、自由な心を持つ人間たちをも『不純な存在』**として容赦なく粛清し始めました。」


 ベリトの瞳が、ふと遠い過去を見るように翳った。「我々悪魔執事は、彼らの理不尽な暴力と、冷酷な**『秩序』**に敗北し、居場所を失いました。敗戦の傷は、我々の魂に決定的な亀裂を生みました。」


「亀裂……?」愛梨は尋ねた。


「はい。それが、主様がプロローグでお聞きになった**『狂気』**でございます。」


 アイム・アイニが急に身を乗り出した。「主様。俺たちの『狂気』ってのは、簡単に言えば**『精神が砕ける病』**っス。理性や優しさを失って、ただひたすら本能と破壊衝動に支配される。それを抑えられなくなったら、俺たちはもう人間を守る執事なんかじゃいられなくなる。」


 ベリトは静かに続けた。「この狂気は、魂の欠陥でございます。そして、悪魔が滅亡へと向かっている最も大きな理由でございます。しかし、その時、我々が最後の希望として見出したのが……主様、貴女の魂でございました。」


 ベリトは、愛梨の手を優しく包み込み、紅い瞳でまっすぐに見つめた。


「貴女の魂は、この世で唯一、我々悪魔執事の狂気を鎮め、魂の安寧をもたらす『救済の波動』を持っているのです。貴女が我々の側にいるだけで、我々悪魔執事は狂気に飲まれずにいられる。だからこそ、ベリトは昨日、あんなにも主様を熱心に求めました。」


 アイム・アイニが少し照れくさそうに頭を掻いた。「だからっス。主様は俺たちの**『命綱』であり、『絶対的な光』っス。**俺たち執事は、主様を守り、主様が愛する現世の人間たちを守る。それが、狂気に打ち勝ち、魂を繋ぎ止めるための、我々との『契約』なのです!」


 愛梨は、自分の手がベリトの温かい掌に包まれているのを感じた。それはただの忠誠ではなく、「この人(悪魔)が生き残るために、私が絶対に必要なのだ」という、強烈で切実な依存であり、それがベリトの言葉の熱となって伝わってきた。


「……わかったわ。私が、あなたたちの『命綱』なのね。」愛梨は、少しだけ頬を赤らめながら、頷いた。


 ベリトは満足そうに微笑み、愛梨の手からゆっくりと手を離した。


「ありがとうございます、主様。では、館には他にも、主様との契約を待ち望んでいる執事たちがおります。さあ、彼らにお目通りいただきましょう。」


 アイム・アイニが弾むような声で言った。「そーっスよ!皆、主様の噂でもうソワソワしてるっスからね!」


 ベリトは執務室の大きな扉へと向き直り、エレガントな声で告げた。


「皆様、お待たせいたしました。**我々の『運命の主様』**でございます。お入りください。」


 その声に、重厚な扉がゆっくりと開き、一斉に九人の男性が姿を現した。


 彼らは皆、ベリトやアイム・アイニと同じように黒を基調とした燕尾服を身に纏い、それぞれが全く異なる雰囲気と個性を放っていた。中には、少し無愛想そうな表情をしている者や、愛梨の姿を嬉しそうに凝視している者もいる。


 部屋に入った執事たちは、一糸乱れぬ動作で一斉に深く頭を下げた。


「我々、プェサの館の執事一同、主様にお目通りさせていただきます。」


 愛梨は、これほど多くの美しい男性が一斉に自分に頭を下げる光景に、驚きのあまり息を飲んだ。彼女の心臓は高鳴り、この世界がもう『夢』ではないことを理解した。


 ベリトが愛梨の隣に立ち、一人一人を紹介し始めた。


「主様。こちらが、館の執事たちでございます。彼らもまた、主様との契約を心より望んでおります。彼らは皆様、『狂気』という名の魂の病を抱えながらも、主様をお守りするために、現世の知識と優雅さを身につけた、忠実なるしもべでございます。」


 愛梨は九人の執事たちをじっと見つめた。その中には、ひときわ目を引く二人の少年がいた。


 一人は、フォラスと紹介された、金色の猫耳を持つ執事。もう一人は、フォカスと紹介された、茶色の猫耳を持つ執事だ。彼らは他の執事たちの後方で、おずおずと愛梨を見つめていた。その表情には、幼い子供のような不安と、怯えが滲んでいる。


「あの……」愛梨は思わず、猫耳を持つ二人に声をかけた。彼らは、天使に粛清されそうになった**『不純な種族』の生き残り**だと、愛梨は直感した。


「どうか、怖がらないでください。私は、貴方たちの味方です。」


 愛梨がそう言って優しく微笑むと、フォラスとフォカスは目を見開き、そして、我慢していたように愛梨へ駆け寄ってきた。


「うっ……主様ぁ!うわああん!」


「主様……!わ、わたしたちのこと、嫌いじゃないですか……?」


 フォラスは愛梨の足元に縋りつき、フォカスは愛梨の小さな手を両手で包み込んだ。二人の震える体温から、彼らがどれほどこの館で肩身の狭い思いをしてきたか、愛梨には痛いほどに伝わってきた。


 愛梨は屈み込み、優しくフォラスを抱きしめ、フォカスの頬を撫でた。


「嫌いなんかじゃないわ。可愛いわ、とても。貴方たちは、貴方たちのままでいていいのよ。この館は、貴方たちが安心して過ごせる場所よ。」


 その言葉を聞いたベリトの紅い瞳に、安堵と感謝の光が満ちた。


「**我々の『運命の主様』**は、やはり、世界を救う『救済の光』でございました……」ベリトは小さく呟いた。


「これから、よろしくお願いいたします。」愛梨は、猫耳を持つ二人の少年を抱きしめたまま、改めて執事たちに決意を込めてそう答えた。


 ベリトは満足そうに頷いた。「では、主様。お疲れでしょうから、今宵はこれにて。明朝、他の執事たちと改めてご挨拶と、館の生活についてご説明させていただきます。」


 愛梨は、ベリトとアイム・アイニに案内され、豪華な自室へと向かった。


(翌朝、異世界での生活が始まる...)

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