第1部『異世界へ』第1章『現実世界と異世界』第1話『現世と異界、ハートの指輪で結ばれて』

【現実世界:下校後のカフェにて】


 学校の下校時刻。この物語の主人公、櫻 愛梨(さくら えり)は、いつものように親友の喜代子に声をかけた。


「喜代子ー、一緒に帰ろー!」


「あ、うん、いいよー。今日部活ないし、帰ろー!」


「んじゃあ、靴箱で待ってるー!」


 愛梨は靴箱で待っていたが、喜代子はなかなか来ない。「遅いなー、喜代子の奴。男子に捕まってんのかねー?」ブツブツ言いながら、愛梨は待ち時間に爪に塗られた淡いピンクのネイルをそっと撫でた。


「ごっめーん、お待たせ!」元気よく走って現れた喜代子は、息を切らしている。


「あ、やっと来たー!カックおごりね?」愛梨はくすくす笑いながら話す。


「えー?今月ピンチなのにぃー!」喜代子は拗ねたように抗議した。


 その時、バサバサッという、羽根のような乾いた音が、近くの木立から響いた。


「ねえ、教科書かなんか落とした?」喜代子が立ち止まり、不思議そうに愛梨に問う。


「鳥じゃない?それよりカック行こうよー」愛梨は喜代子の腕を引っ張り、校門へ向かう。


(?)『運命の主様(あるじさま)の魂の共鳴が、間近に……――まるで、心臓を冷たい指先で撫でられたように』


「ねえ、ほんとに何も言ってないよね?」喜代子は背後に微かに聞こえた、男の低い声に驚いて愛梨を振り返る。


「えー?私が何言ったって言うのよー?」


「それもそうか。あ、ねぇ!昨日やってたあのドラマ、まじヤバくなかった?」喜代子は愛梨の手を握りながら、明るい話題を振って気を逸らそうとした。


「**あ、ジョニーズのやつでしょ!**カック行こー?」


「はいはい……。カックってハンバーガーショップ。好きねぇ?」


 愛梨と喜代子は、いつもの他愛ない会話で不安を打ち消し、賑やかなハンバーガーショップ『カック』へ向かった。


 カックにて、愛梨は会計カウンターで注文をする。「アイスカフェオレとハンバーガー2つずつで!」


「先に席取っとくねー?」


「はーい!」


 愛梨が会計を済ませる間に、喜代子は二階のテラス席へと向かった。


「お待たせー」


 愛梨は、カフェオレとハンバーガーが乗ったプレートを持って二階に上がる。


「あ、こっちだよー!」


「お待たせー。席取っといてくれてありがとう!」カタン、とカウンターテーブルにプレートを置く。


「ううん、席取って置くって私が言ったんだし、気にしないで」愛梨はそう言って笑う。


(?)「……様。主様、この胸を焦がすような感覚は、間違いなく……抗い難い、蜂蜜のような甘さで……」 ――その声は、心臓を直接叩かれたように響いた。


 また、愛梨だけに聞こえる微かな声が響く。愛梨は驚き、声が響いたはずの店内の隅々まで、不安げに視線を走らせた。


「どうしたの?顔色が悪いよ?」心配そうに喜代子が愛梨に声を掛ける。


「ねぇ、なんかまた声が……。幻聴なの?これ」


「え?だ、大丈夫だよ、きっと!ハンバーガー食べたら治るよ!」喜代子は愛梨の手を握り、不安そうな親友を支えようとする。


(?)『――主様!』


 その瞬間、テラス席の空中に、まるで空間が引き裂かれたかのような漆黒のゲートが、静かに、しかし凄まじい威圧感をもって開いた。


 冷たい風と共に、黒い燕尾服を纏い、背に黒い羽を広げた長身の男性が現れる。それこそが執事頭の悪魔執事ベリトだった。彼の紅い瞳は、愛梨の魂の波長を測るように神秘的に光っていた。


 周囲の客は時間の流れから切り離されたように**静止していた。**愛梨たちの隣でポテトを口に運ぼうとしていた女子高生は、**そのままピタリと動きを止めている。**しかし、親友の喜代子だけは、愛梨と同じように動けていた。


「え?な、何?主って?私何も持ってないし……」突然の異様な光景とベリトの言葉に、愛梨は困惑する。


 ベリトは、愛梨の鞄についた、古い銀のチェーンが通されたハートの指輪を優雅に示した。


「世界を救う『運命の主様』の証。我々悪魔執事が絶対の忠誠を捧げる、そのハートの指輪でございます」


「これが、どうしたの?」愛梨はキョトンとする。


「これが、貴女を我々の世界へ誘う『鍵』であり、我々の存在を繋ぎ止める『命綱』でございます」


 その言葉と同時に、ベリトは素早く愛梨の手に触れた。


 ゾクリ、と心臓が掴まれるような感覚が愛梨を襲う。そしてベリトの顔も一瞬、苦悶に歪んだ。


「っ……これが、運命の共鳴……。しかし、なぜ二人も……?」


 ベリトは即座に優雅な笑顔に戻り、愛梨の手を離さずに続けた。


「今晩、お眠りになった時に、主様は異世界へお越しになれます。その指輪が、貴女の魂を我々の館へと導くでしょう」


「わかった。この子は?喜代子って言うんだけど、一緒に連れていってくれるの?」愛梨は喜代子を指差して尋ねる。


 ベリトは喜代子を一瞥し、紅い瞳を細めた。


「……本来、契約は主様お一人でございます。しかし、運命の歪みでしょうか、そちらのお嬢様も魂の波動が乱れておられます。手を繋いでいらしたせいでしょう。今晩は大丈夫でございますが、恐らく、主様がこちらの世界で長くご滞在なされば、彼女も引きずり込まれてしまう可能性が高い」


 ベリトは愛梨の手を強く握り直した。その瞳に、誰にも悟らせない、強い執着と焦りが灯る。


「ですから、決して**ただの『夢』としてお忘れになることのないよう、**その魂に深く留めておいていただきたいのですが……よろしいでしょうか、主様。お目にかかっていただきたい執事たちもおりますので」


「う、うん……わかった。気をつける」


 愛梨はベリトの熱い手の感触に、ただ頷くことしかできなかった。


「ありがとうございます。それでは、お待ちしていますね」


 ベリトは優雅に会釈すると、黒い羽ばたきと共に空のゲートへと飛び去って行った。テラス席の客たちは、時間の流れを取り戻し、一斉に賑わいを取り戻す。


「ね、ねぇ……今の、何……?」


 喜代子の震える声が、愛梨を現実へと引き戻した。


【異世界:プェサの館の夜】


 その日の夜。


 ベリトの言葉を半信半疑のまま、帰宅した愛梨はベッドで眠りに落ちた。


《――運命の扉が開く――》


 愛梨は、豪華絢爛な大広間の真ん中に立っていた。大理石の床は深い藍色の絨毯が敷かれ、頭上遥か高くには、星空を閉じ込めたかのようなシャンデリアが輝いていた。ステンドグラスの窓からは、月光のような淡い光が差し込み、夢とも現実ともつかない、息を呑むような神秘的な美しさに全身が包まれた。


「主様、来ていただけて良かったです。我々執事一同、お待ちしておりました」


 愛梨を見つけたベリトは、深々とお辞儀をして挨拶をする。


「あれ?私、寝てたんじゃ――」


「ええ。ですが、心配には及びません。こちらの世界では、主様が目覚めるまでの時間を、一瞬のように感じられます」


 ベリトは、愛梨の緊張を和らげるように穏やかな口調で話す。


「では、緊張されていると思いますので、館で一番安らげる紅茶の用意を致します。ヴァレフォール!」ベリトが声を張り上げる。


 静かに、音もなく部屋の隅から現れたのは、優雅な茶髪の執事、ヴァレフォールだった。


「畏まりました、ベリト様。主様、私の淹れる**『安らぎのハーブティー』**は、きっと主様の心の緊張を解き、この世界での不安を和らげるでしょう」


 ヴァレフォールは優しく微笑み、愛梨が立っている場所へ一歩踏み出し、湯気の立つカップを差し出した。愛梨は、その穏やかな瞳と、ベリトの威圧感とは全く違う温かい気配に、少し安堵を覚えた。


「え?あ、ありがとう」


「さあ、どうぞ、冷めないうちに」


「なーなー、ベリトさん!」 突然、ノックもせずズカズカと大広間に入ってきたのは、もうひとりの執事、アイムだった。「主様が見つかったって本当っスかー?」


「あの、えっと……」愛梨は突然の訪問者に戸惑う。


「何でございますか、アイム。主様の前ですよ。少し控えめになさってください」ベリトはアイムの態度を軽く諌め、クスッと笑いながら愛梨の横に立った。


「じゃあ後で二階の執務室に来てくださいっス!お話したいことがあって」


「かしこまりました、向かいます。主様もよろしければご一緒いただけますでしょうか?きっと、今お知りになりたいことが、あそこで全てお分かりになりますよ」ベリトは愛梨に優しく提案する。


「今聞きたいこと……?」愛梨は頷いた。


「ですが、そのお召し物のままでは、この世界の方ではないと多くの方に知られてしまいます。主様の威厳をお守りするためにも、こちらのお召し物へお着替えくださいませ」ベリトは着替え用の薄いエメラルド色のワンピースを愛梨に渡す。


「うん、わかった」


「では、廊下にてお待ちしていますので、お召し物を着られたらお声掛け下さい」ベリトとアイム、そしてヴァレフォールは一度退室した。


「綺麗なワンピースね」大広間の個室で一人着替える愛梨。


「主様、如何でしょうか?」


 ベリトの声に、愛梨が「はーい」と返事をすると、個室のドアが開いた。


「お似合いですよ、主様」ベリトは優しく微笑む。


 ベリトは、愛梨に手を差し出す。アイムは一歩下がって控えている。


「お手をどうぞ、主様」


 愛梨は気恥ずかしそうにベリトの手を取り、二階の執務室へと向かった。


《執務室の手前:ベリトの執着とロマンス》


 愛梨の手に触れたまま、執務室の扉の前で立ち止まるベリト。その優しかった瞳に一瞬、真剣で、どこか支配欲のような光が宿る。


「主様。皆様にお目通りいただく前に、一つだけ心に留めておいていただきたいことがございます」


「うん?」


「このプェサの館は、悪魔王の絶対的な監視下にございます。悪魔王は、真の主である人間界とのご交流を固く禁じ、破った者には追放、もしくは存在の消滅という厳罰が下されます」ベリトは声を低くする。


「わたくしは、悪魔王の愚かな掟に抗うため、主様をこの館へお迎え申し上げました。しかし、もし主様の大切なご存在が外部に漏れれば、それはわたくしだけでなく、この館の全ての執事たちの破滅を意味いたします」


「えっ……そんなに危険なことなの?」


「ええ。ですから、何がありましても、決して、貴女がわたくしにとってかけがえのないご存在であることは、館の外部の者には知られてはならないのです」

 ベリトは、愛梨の手の甲にそっと唇を近づけ、切実な思いを込めて、囁くように続けた。

  「『人間であること』以上に、貴女は『わたくしたちの命綱』でございます。**どうか、ご自身の安全と、私たちの願いのために、この館に留まってくださいませ。**よろしいでしょうか、わたくしたちの愛しい主様」  ベリトは深くお辞儀をした。その姿は、主を守り抜くという、執事の揺るぎない献身そのものだった。」


「ありがとうございます、主様。さあ、参りましょう」

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