日常を綴りたいだけ

@tsuzuri

かぜ



 袋のぬくもりが、人の情けに似ていた。


それは誰かがそっと触れたような、静かな温かさであった。

冷えた指先に触れた瞬間、わたしの奥底に眠っていた記憶が目を覚ます。

幼いころ、祖母が夜明けに握ってくれたおにぎりのぬくもり。

言葉ではなく、ただその温度だけで伝わるやさしさが、今も胸の奥に残っている。

この袋のなかにある米は、孤独に寄り添う静かなぬくもりなのである。

だからこそ、空気が肌を刺すように冷え込み、わたしの重荷となってしまっても、

けっして手放すことは出来なかった。



頬に触れる空気が、次第に鋭さを増してゆく。

はじめはただの秋の気配だったはずが、時の流れに紛れていつのまにか冬の匂いを含んでいた。

わたしは、日々をただ生きることに精いっぱいで、季節の移ろいに気づく余裕もなかった。

けれど、吐く息が白くなったとき、わたしはふと立ち止まる。

その瞬間、過ぎ去った時間の重みが胸に降り積もるようだった。

街灯のあかりが遠ざかるにつれ、耳に残るのは夜の静けさだけ。

それは、誰かの声を忘れてしまった夜の記憶に似ていた。

わたしは襟を立て、顔を伏せる。

それでも、空気は容赦なく肌をなぞり、心の隙間にまで入り込んでくる。

孤独を運ぶような空気が流れるたび、胸に抱いたぬくもりが、

わたしを現実へと引き戻した。



寒さが深まるほどに、この米の存在が現実味を帯びてくる。

それは、今日を生き延びるための証であり、明日へとつながる希望でもある。

重みは、ただの物理的な感覚ではない。

それは、誰かが私に託した「生きてほしい」という願いのようだった。

この米を炊けば、湯気が立ち、部屋に温もりが戻る。

その瞬間を思うだけで、足取りが少しだけ軽くなる気がした。

だからこそわたしは、両腕でしっかりとこの袋を抱きしめた。



夕暮れの道を歩むわたしの影が、長く地を這う。

空は茜色から群青へと移り変わり、世界が静かに夜へと向かっていた。

影は、わたしの後ろを黙ってついてくる。

まるで、過去の私が地面に貼りついて離れないようだった。

歩くたびに、影は揺れ、伸び、時に歪む。

それは、わたしの心の形を映しているようにも思えた。


誰にも見られないこの道で、影だけがわたしの存在を証明してくれる。

そして私は、影とともに、今日という一日を踏みしめていた。

されど、このぬくもりがあれば、なお歩みを進められる気がする。

それは、胸に抱いた米袋の温度かもしれないし、

手のひらに残る誰かの記憶かもしれない。

凍てつく空気の中で、たったひとつ残された温もりが、

わたしの足を止めさせない。

このぬくもりは、過去に誰かがわたしに分けてくれた優しさの残り火。

それが今、私の中で静かに燃えている。



歩く理由は、いつも明確ではない。

けれど、ぬくもりがある限り、わたしは前へ進める。

それは、希望という名の灯火であり、わたしが生きている証でもあるのだ。

生きるとは、ただこのぬくもりを頼みに、

静かに移ろう季節の中を進み続けることかもしれない。

それは、確かなものが何も見えない中で、唯一感じられる温度。

目に見える希望がなくても、手の中に残るぬくもりが、わたしを支えてくれる。

空気は、時に過去の痛みを思い出させ、未来の不安を忍び込ませる。

それでもわたしは、このぬくもりを信じて、歩みを止めない。

それが米袋の温かさであれ、誰かの言葉の余韻であれ、心に灯る小さな火が、

わたしを生かしている。

生きるとは、そうした火を絶やさぬように、静かに、

しかし確かに歩み続けることなのだ。


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