ためらいの一秒

をはち

ためらいの一秒

第1章:駅前の出来事



秋の陽射しが柔らかく降り注ぐ10月の昼下がり。


大学生の大輔は、講義を終えて駅から自宅アパートへ向かっていた。


いつものように、電車を降り、改札を抜け、バス停が並ぶ駅前広場に出る。


雑踏の中、左前方に歩く女性がふと目に入った。


スーツ姿の20代半ばと思しき女性だ。


手に持ったスーパーの袋からは、赤いリンゴが顔を覗かせている。


どこか頼りなげなその姿に、大輔は無意識に視線を留めた。


時間は13時を少し過ぎた頃。昼食を終えたサラリーマンたちが足早に職場へ戻っていく。


忙しさに満ちた空気の中、突然、その女性が膝をつき、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。


スーパーの袋が手から滑り落ち、リンゴが一つ、コロコロと大輔の足元まで転がってきた。


それはまるで「助けて」と訴えているかのようだった。


大輔は一瞬にして状況を理解した。


彼女は倒れたのだ。心臓発作か、過労か、あるいは別の理由か。頭の中で警鐘が鳴り響く。


だが、足は動かない。


周囲を見渡すと、誰もが素通りしていく。


忙しさに追われる人々は、倒れた女性に目を向けることすらしない。


立ち止まったのは、大輔一人だった。


「動かなきゃ」と心が叫ぶ。


だが、足はまるで地面に縫い付けられたように重い。


助けたいという衝動と、知らない人間に手を差し伸べることへの恐怖がせめぎ合う。


「もし、誤解されたら?」


「何か問題が起きたら?」


そんな考えが頭をよぎり、身体を硬直させた。






第2章:義友の行動



その時、背後から聞き慣れた声が響いた。


「大輔! 手伝ってくれ!」


振り向くと、大学の同期である義友がAEDを手に息を切らして駆け寄ってくる。


義友は迷いなく倒れた女性に近づき、彼女の服に手をかけようとした。


「待て、義友!」


大輔は思わず叫び、義友の手を払いのけた。


「知らない女にAEDを使うなんて、痴漢やわいせつ行為で訴えられるかもしれないぞ! そんな事例、聞いたことあるだろ!」


義友は一瞬、驚いたように大輔を見たが、すぐに顔をしかめた。


「何言ってんだ、大輔! そんなこと気にしてる場合か!」


「義友、触るな! 助かった後で、彼女が『人前で服を脱がされた』って訴えたらどうする?


『死んだ方がマシだった』って言うかもしれないぞ!」


「バカ野郎!」


義友は大輔を突き飛ばした。


「そんな戯言言うなら、邪魔だから消えろ!」


大輔はよろめきながらも食い下がった。


「義友、知らない女のために将来を棒に振るつもりか!」


その時、別の声が割って入った。


「あなたたち、何やってるの!」


振り向くと、同じく大学の友人である裕実子が息を切らして駆けつけていた。


彼女は一瞥で状況を把握すると、迷わず女性のシャツのボタンを外し、AEDの電極パッドを装着した。


的確な動きでAEDの指示に従い、救命措置を始めた。


「大輔、義友、救急車! 早く!」


裕実子の鋭い声に、大輔はようやく我に返り、スマホを取り出して119番に電話をかけた。







第3章:波紋



数日後、事態は思わぬ方向に進んだ。


SNS上で「あの駅前での出来事」が拡散されていた。


音声のない動画には、大輔と義友が言い争う姿が映し出され、誰かが勝手に字幕をつけていた。


「俺にも触らせろ」と、まるでふざけたやり取りのように編集されていたのだ。


大学名や二人の名前まで特定され、「痴漢疑惑」なるレッテルが貼られていた。


大輔は愕然とした。


自分たちが命を救おうとした行為が、こんな形で誤解され、拡散されているなんて。


義友もまた、憤りを隠せない様子だった。


そんな中、倒れた女性を助けた裕実子が二人を訪ねてきた。


「あの時の女性が意識を取り戻したよ。会いに行かない?」


病院で再会した女性は、車椅子に座っていた。


彼女の名前は美咲、28歳の会社員だった。


彼女は穏やかな笑みを浮かべ、大輔たちに深々と頭を下げた。


「あの時、助けてくれてありがとう。あなたたちがいなかったら、私はここにいなかった。」


美咲の両親も涙ながらに感謝の言葉を述べた。


その瞬間、大輔は自分たちの行動が間違っていなかったことを確信した。


だが、同時に胸を締め付ける思いもあった。


美咲の足は、蘇生が遅れた影響で不自由になっていた。


医師の話では、AEDの使用があと数分早ければ、結果は違っていたかもしれない。






第4章:真実とデマ



その後、事件はメディアで取り上げられ、SNSのバッシングは一気に収束した。


テレビでは「AED使用による痴漢冤罪の誤解」をテーマに討論番組が放送された。


2017年に、ある架空の会社が発信した「AED使用で訴えられた」というデマがSNSで拡散され、


人々の間に誤った認識を植え付けていたことが明らかになった。


法的な観点からも、民法第698条「緊急事務管理」により、緊急時の救命行為は正当な行為とされ、


訴訟リスクはほぼないと専門家が説明した。


AEDによる電気ショックが1分遅れるごとに救命率が10%低下するというデータも紹介され、


「ためらいは命取り」と強調された。


大輔は愕然とした。


自分が信じていた「リスク」はデマだったのだ。


無知だった自分を恥じ、ためらいが美咲の足に影響を与えたかもしれない事実に、胸が締め付けられた。







第5章:一秒の重み



数週間後、大輔は美咲を再び訪ねた。


彼女はリハビリに励んでいたが、笑顔は変わらず明るかった。


「あの時、あなたたちがいてくれて本当によかった。足のことは気にしないで。私、生きてるだけで幸せだから。」


その言葉に、大輔は涙をこらえた。


だが、心のどこかで、自分があの時ためらわなければ、という思いが消えることはなかった。


大輔は決意した。


無知が人を殺すこの国の罠を、少しでも減らしたい。


AEDの正しい知識を広め、ためらいの一秒をなくすために、自分にできることを始めようと――。





この物語は、現代の社会にある“ためらい”の背景を、そっと描いてみました。


AEDをめぐる誤解やデマは、命を救う一秒を奪う。


無知は罪ではないが、知ろうとしないことは罪かもしれない。


大輔の葛藤を通じて、私たちは「ためらいの一秒」がどれほどの重みを持つのかを、


改めて考える必要があるのではないでしょうか。

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