第5話  霧の海に消える声

 冷たい潮風が頬を刺した。

 蓮は息を荒げながら桟橋の端まで駆け抜ける。

 靴底が濡れた木板を叩くたび、海面から立ち上る霧が渦を巻いた。

 背後ではまだ、倉庫の爆炎が夜を焦がしている。

 黒田の姿が脳裏に焼き付いたまま、消えてくれない。


 ――あの人は、何を知っていた?


 蓮はポケットの中で、ペンダントを強く握りしめた。

 中のメモリカードが、微かに金属音を立てる。

 その小さな震えが、まるで黒田の声の残響のように感じられた。


 港の奥へ進むと、錆びたコンテナが積み上がる一角があった。

 古びた照明がチカチカと瞬き、そこに一人の影が立っている。

 コートの襟を立て、煙草の火を指先で隠すように灯した男――


「……神谷。」


 蓮の声に、男はゆっくりと振り向いた。

 灰色のスーツの裾に、赤い光が揺れる。

 その瞳には怒りでも冷笑でもない、奇妙な疲労が宿っていた。


「黒田はどうした?」


 短い問い。

 蓮は答えられず、ただ拳を握りしめる。

 神谷は小さく頷いた。


「そうか……やはり、間に合わなかったか。」


 その声音に、ほんの一瞬、哀しみが混じった気がした。

 だが次の瞬間には、彼の目が鋭く光る。


「そのペンダントを渡せ。お前には扱えない。」


「中には、あんたが隠した“真実”があるんだろう。」


 蓮の言葉に、神谷は煙を吐きながら苦く笑った。

「真実……? そんなもの、見る者を壊すだけだ。」


「それでも、黒田は俺に託した!」


 風が唸り、海が鳴る。

 神谷が一歩近づいた。

 その足音が、銃の安全装置を外す音と重なる。


「ならば見せてやろう――奈央が何を願ったのかを。」


 蓮の心臓が跳ねた。

 奈央――彼女の名を、神谷が口にした。


「……あんたが、奈央を……?」


 神谷の表情は崩れない。

 ただ静かに、銃口を下げたまま言った。


「彼女が最後に残したものは、“真実”じゃない。“選択”だ。」


 次の瞬間、遠くでサイレンが鳴り響いた。

 警察か、それとも――神谷の部下か。

 霧の向こうで、赤と青の光がぼんやりと瞬いている。


 蓮は息を飲んだ。

 握るペンダントの中に、確かに何かが“鼓動”している気がした。

 黒田、奈央、そして神谷――

 彼らを繋ぐ“真実”が、今、目を覚まそうとしていた。

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