第19話  恋人役のセリフは誰のために

放課後の講堂は、いつもより静かだった。

厚い緞帳の向こう、ライトのまだ入らないステージに、朝霧玲奈の声だけが響いている。


「……貴方を、忘れることなんてできない。たとえこの身が滅んでも――」


息を呑むほど美しかった。

彼女の声はまるで舞台の光そのもので、観る者の心を奪う。

彼女の目の前に立つのは、神谷蓮。

 その立ち姿は、まるで本物の恋人のように見えた。

この事が日向勇気の胸に小さな爆弾を仕掛けた。


「……おいおい。なんで“彼氏役”が神谷なんだよ」


ステージ袖から顔を出した勇気の呟きに、照明係の後輩が苦笑する。


「助っ人ですよ。神谷先輩、演技のタイミング完璧なんで」


「完璧すぎるのが問題なんだよ……」


勇気はぼやきながら、玲奈の演技を見つめた。

彼女は笑っていた。

“演技の笑顔”のはずなのに――

勇気の胸の奥に、もやもやした黒い煙が渦を巻いた。

 玲奈が笑うたび、視線が交わるたび――“現実”と“演技”の境界が曖昧になっていく。



練習がひと段落すると、玲奈は息を吐いて笑った。

「……ありがとう、神谷くん。息ぴったりだね」


「いや、俺はセリフ覚えてるだけだよ。玲奈の感情が引っ張ってくれる」


「ふふっ、そんなこと言っても何も出ませんよ?」


玲奈がくすくす笑う。

蓮は耳をかきながら、少し照れくさそうに笑い返した。

その光景を見て、勇気の眉がピクリと動く。


「なに、あの空気……。恋愛ドラマの撮影現場かよ」


「勇気くん、嫉妬中?」

背後からひょいと声がして、勇気は振り向く。


そこには――桐生里奈。

生徒会長にして、“完璧”の二文字を具現化した少女が、腕を組んで立っていた。


「ち、ちがっ……別に俺は、その……!」


「いいえ、わかりますよ」

彼女は淡く笑う。その笑みはどこまでも静かで、少しだけ挑発的だった。

「演技でも、人の感情は動きます。――だからこそ、舞台は美しい」


勇気は言葉を詰まらせる。

玲奈が“演技で”神谷を見つめるたび、胸が痛んでいた。

それが“舞台の魔法”だとしても――嫉妬は消えない。



休憩時間。

ペットボトルを片手に、玲奈が小休憩を取っていた。

勇気は黙って近づき、口を開く。


「なあ、あいつと、やけに息合ってたな」


「うん、蓮くん演技上手だもん。ちゃんと“恋人役”になってくれる」


「……俺だって、彼氏役だろ」


玲奈はストローをくわえたまま、くすりと笑った。


「勇気くん、演技なんだよ。演技。私が本気で恋してたら困るでしょ?」


「演技でも、ちょっとは……その、抑えろよ」


「……ふふっ。ねえ勇気くん」

 玲奈が一歩近づく。甘い香りがした。

 「“本気”と“演技”って、どこからが違うんだと思う?」


「は? 急に哲学やめろ」


「だって……」

 玲奈の目が、一瞬だけ揺れた。

 「本気で想ってなきゃ、“恋人役”なんてできないもん」


 勇気はその言葉の意味を掴めず、ただ黙った。

 舞台の光が、玲奈の瞳を淡く照らす。

「勇気くんのは“リアル”だから、逆に難しいんだよ」

「は?」


「だって本気になっちゃうでしょ。観客が見たら、照れるじゃない」


彼女の瞳は冗談めかしていたが、その奥にはかすかな影が見えた。


――なにかを隠している。

勇気の胸に、得体の知れない違和感が広がっていく。



練習再開前、照明裏で桐生が神谷に声をかけた。


「あなた、思ってたより演技上手いのね」


「俺? いや、玲奈が引き出してくれてるだけだよ」


「……ふふ。言い方が優しいわね。女の子にモテるでしょ?」


「いや、そんなことないですよ。会長のほうがよっぽど」


「冗談は苦手なの」

 桐生は軽く笑ったが、その瞳は静かだった。

 「でも――“優しさ”は時に、相手を苦しめるのよ」


桐生は静かに言い、視線をステージの玲奈に移した。


神谷は一瞬、言葉を失う。

その沈黙を、勇気が遠くから見ていた。


(……なんで桐生まで、蓮に絡んでんだ)

嫉妬、焦燥、そして何か分からない怒り。

舞台の空気が熱を帯びていく。


桐生は視線を舞台へ。

そこには、再び立ち上がる玲奈の姿。



「――“愛してる”って言ってよ、最後に。それで終われるから」


玲奈の台詞が、講堂に響く。

神谷が静かに息を整え、声を返す。


「……愛してる。君がいなくても、生きていけないほどに」


その瞬間、講堂全体が沈黙に包まれた。

 それは、演技の域を超えた“感情”だった。


 勇気は拳を握りしめた。

 “舞台のセリフ”に嫉妬するなんて、馬鹿みたいだ。

 だけど、抑えられなかった。


「……なんだよ、あれ。本気じゃねぇか」


観客席の端で見ていた勇気は、喉が詰まる感覚を覚えた。

“演技”だと分かっているのに――心がざわつく。


桐生が、ほんのわずかに目を細めた。

「……人の心を、動かすのは罪ね」


「罪?」勇気が小声で反応する。


「ええ。意図していなくても、人を惑わせることになるから」


桐生の声には、どこか自身を戒める響きがあった。

桐生が隣でさらに呟くように言った。


 「演技ってね、嘘をつく練習じゃないの。――本音を、他人の言葉で隠す技術よ」


 勇気は目を見開いた。

 “本音を隠す”。

 それは、桐生自身にも重なって見えた。



舞台袖の隅で、日向美月は台本を抱えながら、兄を見つめていた。

勇気の表情――それはもう、“見守る恋人”ではなかった。


美月(心の声)

「お兄さん……なんでそんな顔するの」

「玲奈先輩を見てるのに、里奈先輩ばっかり気にしてる……」


彼女の指が、無意識に紙を握りしめる。


「私、知ってる。

 お兄さん、舞台の上の玲奈先輩より――舞台の外の“里奈先輩”を見てる」


自分でも驚くほど、胸が痛かった。

それは、恋に似て、恋ではない“憧れ”の痛み。



練習が終わり、講堂の照明が落ちる。

桐生と神谷が並んで帰る姿を、勇気は少し離れて見送っていた。


「……あいつら、まさか付き合ってるんじゃ……」


思わず口をついた独り言。

その声に、後ろから穏やかな声。


「そんなこと、ないわよ」


「なっ――いつからそこに!?」


桐生はくすりと笑った。

しかし、その横顔はどこか照れていて、耳がほんのり赤い。


「神谷くんとは、ただの……仲間。そういう関係よ」


「“ただの”仲間ね…なんか引っかかるんだけど。」


「そう感じるってことは――勇気くん、案外敏感なのね」


 桐生の微笑に、勇気の心拍数が跳ね上がる。

 言葉を返せず、ただ視線を逸らした。




講堂の外、秋風が吹き抜け、落ち葉が舞う。

美月は一人、暗い空を見上げていた。


美月(心の声)

「ああ、桐生先輩……やっぱり神谷先輩なんだ」

「お兄さんは、もう玲奈先輩の笑顔に“違和感”を感じてる」

「気づかないふりしてるけど、ちゃんと気づいてるんだよね」


窓の奥では、まだ玲奈が一人残っていた。

ステージの上で、台本を胸に抱きながら呟く。


「……“愛してる”って、言えたら楽なのに」


 その声は、静かに講堂の天井へと消えていく。

 美月は微笑もうとして、できなかった。


 ――恋も演技も、どちらも本気じゃなきゃ届かない。

 でも、本気になると、痛い。


そして、誰もがまだ知らなかった。

この“リハーサル”こそが、後に彼らの関係を決定づける“幕開け”になることを。

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