第18話 文化祭準備会議
放課後の生徒会室。
机の上には、文化祭の企画資料が山のように積まれていた。
カップに注がれたインスタントコーヒーの香りが、わずかに漂う。
傾いた陽光がブラインドの隙間から差し込み、室内の埃を金色に染めていた。
静まり返った空間の中、カチ、カチと時計の針の音だけが響く。
「では、次の議題。――文化祭ステージの使用申請について。演劇部からの希望は“メインホール”。」
桐生里奈が口を開いた瞬間、空気がぴんと張り詰めた。
生徒会長としてのその声は、淡々としていて、それだけで周囲を静める力があった。
桐生里奈は手元のタブレットを見つめながら、落ち着いた声で言った。
黒髪をきっちりまとめ、制服のリボンも寸分の乱れなし。
その佇まいは、まさしく“完璧な生徒会長”だった。
対面の席で、朝霧玲奈が軽く手を挙げる。
「はいっ、演劇部の朝霧です。文化祭の劇は《白薔薇の誓い》を上演予定なんです。せっかくだから、一番広い会場でやりたくて……メインホールの使用をお願いしたいんです!」
彼女の瞳には自信が宿っている。
舞台の主役を務める者の、それはまるで照明のような輝きだった。
桐生は淡々と資料をめくり、冷静に言葉を返した。
「メインホールは音楽部と競合しています。演奏会のリハーサルも同時期ですから、調整が必要です。」
桐生の返答は冷静そのもの。まるで感情という成分が一滴も混じっていないような声。
「……あ、そうなんですね。でも観客数的には、演劇のほうが多いと思うんですよね〜」
玲奈は微笑みながらも、わずかに挑発の香りを乗せる。
そのやりとりを、神谷蓮――2年A組文化祭実行委員長が見ていた。
彼は苦笑を浮かべ、ペンを指でくるくる回す。
「まあまあ、落ち着いて。確かに去年のデータだと演劇部の観客数は音楽部より多かったしな。……ね、会長?」
桐生は一瞬だけ視線を彼に向け、眉をわずかに寄せた。
「だからこそ、慎重に決める必要があるのよ。人気だけで優先を決めるわけにはいかないわ。」
――静かな火花が散った。
その場に居合わせた日向勇気は、息をのむ。
(うわ、こりゃ……やばい。空気、完全に戦場じゃん)
差し入れ係として隅にいた日向勇気は、缶コーヒーを握りしめながら心の中でつぶやく。
その隣では、1年A組 生徒会庶務担当の日向美月――彼の義妹が、無言でため息をついた。
こうして、放課後の“静寂の戦場”が始まった。
会議がひと段落し、コーヒーの香りが漂う中。
玲奈が、ふと会長席の桐生に微笑みかけた。
「生徒会長って、ほんと完璧すぎて近寄りがたいですよね〜」
玲奈が柔らかく笑った。
声のトーンは甘い。けれど、その笑顔の裏に確かな“棘”が見える。
「完璧じゃないわ。ただ、サボらないだけ」
その一言に、玲奈の笑顔がわずかに固まる。
しかし、すぐにいつもの調子で返した。
「うわ〜、そういうの言えるの、ほんと尊敬します。私、つい寝坊しちゃうタイプなんで〜」
「それでも、遅刻はしてないでしょう?」
「う……一応、そうですね」
ピシリと空気が張り詰める。
神谷が慌てて話題を戻すように口を挟んだ。
「はは、まあ、二人とも真面目ってことだよな。里奈は几帳面だし、玲奈は努力家だし。俺なんかすぐ書類なくすし。」
神谷の軽口が空気に落ちた瞬間、勇気の心に“ピキッ”とヒビが入った。
(おい、蓮。お前、今さらっと里奈呼びしなかったか?)
桐生はわずかに頬をゆるめる。
その微笑みが“珍しい”と分かるくらい、いつもは表情を変えない彼女だから。
勇気の中で、得体の知れない焦燥が広がっていく。
「おいおい、なんで蓮がそこに割って入るんだよ……!」
小声で呟いた勇気の隣で、美月がため息をついた。
「また始まった……兄さんの嫉妬モード。」
勇気は気を紛らわすように、机の端に置いていたクッキーの箱を開けた。
「……はい、差し入れ。クッキー。甘いもの食べると会議も進むって聞いた」
「ありがとう、日向くん」
桐生が自然に礼を言う。
玲奈が口を開く。
「勇気くん、気が利きますねぇ〜。彼氏の鏡です〜。」
玲奈が甘ったるく言ってきた。恋人として“見せつけ”るように。
「……そう」
桐生が短く返す。その声音は、氷のように冷たい。
「そ、そうって……会長、それだけ?」
玲奈の笑顔がピクリと引きつった。
勇気は心の中で呻いた。
(……なんだこの感じ……笑えばいいのか、怒ればいいのかも分かんねぇ?)
美月は黙ってその様子をメモするように見つめていた。
まるで「恋愛バトル実況記録係」みたいに。
会議はその後も続く。
各部の企画調整、予算配分、装飾案。
だが話題が進むたび、空気はますます濃くなっていった。
「じゃあ、この件は明日までに再検討ってことで」
神谷が区切る。
「異論はありません」
桐生が即答。
「了解です〜。……勇気くん、台本の準備お願いね?」
玲奈が笑顔で振り返る。
「お、おう。……って、俺、完全に雑用係じゃん」
内心のツッコミがこぼれた瞬間、桐生が微かに口角を上げた。
「役割分担は大事よ。演劇も、裏方がいてこそでしょ?」
「……うわ、それ正論すぎて反論できねぇ」
美月は黙ってノートを閉じ、兄の横顔を見つめた。
(兄さん、ほんと分かりやすい……)
そして、そんな小さな戦場の中。
それぞれの心には、まるで違う火種が灯っていた。
神谷は純粋に文化祭を成功させたい。
玲奈は“桐生を出し抜きたい。
勇気は“玲奈をよく見せて、桐生の反応を引き出したい。
桐生は全員を公平に扱っているつもり。
でも、外から見れば――
それはまるで、“四角関係の前哨戦”だった。
会議がひとまず中断し、各自が資料を整理していた。
夕陽が差し込む生徒会室の窓辺。
玲奈がふと隣に立った。
その距離、ほんの30センチ。
「会長さんって、恋人とかいるんですか?」
その問いは、偶然を装った明確な“挑発”。
「……いません」
桐生は視線を上げないまま答える。
「そうなんですね。なんか、意外で」
玲奈は笑ってみせるが、その目は桐生の反応を探るように鋭い。
「てっきり、神谷くんかと――」
「それは、あなたの想像です」
桐生の声は静かだが、言葉には刃があった。
「恋愛は、私の優先順位には入ってないので」
玲奈は唇を噛み、笑顔を貼り付ける。
「ふふっ……そういうの、男の人が一番燃えるんですよ?」
玲奈の声には、冗談とも挑発とも取れる響きが混じる。
桐生はそのまま彼女の目を見た。
ゆっくりと、完璧な笑みを浮かべて。
「――そういう駆け引き、私には似合わないわ」
それは、勝者の微笑みだった。
(……負けた。何、この人、壁高すぎ)
桐生はそのまま席を立ち、会議資料を机に並べ直す。
「では、次の議題に入りましょうか。」
玲奈は何も言えず、小さくため息をついた。
勇気は少し離れた席で、その一部始終を見ていた。
桐生と玲奈――二人の間に漂う空気は、張り詰めていて、美しかった。
そして、どこか近寄りがたい。
(……なんだよ、これ)
玲奈が桐生に何か言い、笑い――そして負けたように視線を落とす。
桐生の姿が視界から離れない。
彼女の一挙一動に、胸の奥がざわつく。
(俺が守りたいのは、玲奈のはずだろ……なんで、あの人ばかり気になる)
桐生が神谷と笑い合う。
それを見た瞬間、勇気の頭の中で“理性”という名の糸がぷつんと切れた。
「……ああ、もうムカつく!」
突然の独り言。
廊下の端で美月が肩をすくめた。
「兄さん、声、漏れてるよ」
「っ……聞くな!」
「うん、聞かなくても顔が全部語ってるけどね」
「黙れ!」
兄妹げんかのようで、どこか切ない沈黙が残る。
会議が終わり、生徒会室には静寂が戻る。
勇気と玲奈はすでに退出し、桐生と神谷も資料を抱えて出ていった。
残ったのは、美月ひとり。
窓の外では夕焼けがゆっくりと紫に溶けていく。
薄暗い部屋の中、机の上には飲みかけのコーヒー。
兄の残した紙コップが、わずかに湯気を立てている。
「……お兄さん、カッコつけてるけど、顔、真っ赤だよ。」
誰に聞かせるでもない声。
美月はひとりごとのように笑った。
けれどその笑いは、どこか寂しげだった。
(玲奈さんのこと、ちゃんと好きなんだよね?
でも……なんで、あんなに会長のこと見てたの?)
ノートを閉じ、ゆっくり立ち上がる。
外では、夕焼けが窓を朱に染めていた。
「……ほんと、見てるこっちが疲れる。」
そう言いながらも、胸の奥がチクリと痛む。
“好きだからこそ、笑えない”。
美月の想いは、誰にも届かないまま、静かに胸に沈んでいった。
(……お兄さん、ほんとカッコつけだな)
机の上に残されたクッキーの包み紙を、そっと指でつまむ。
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