第16話 日向勇気の朝

――夢の中で、俺はようやく里奈とデートしていた。

柔らかい風。隣に笑う彼女。ああ、幸せだな。


なのに、現実は――。


「日向くん、朝です。起きてください」


寝ぼけ眼をこすりながら、俺はベッドの中で現実逃避を試みていた。

だが、いつものように“完璧な声”が現実へと引き戻す。

もう一度声を掛けられる。


「……日向くん。もう朝ですよ」


柔らかく、しかし一切の甘さを含まない声。

ああ、この音色。もう耳が覚えてる。


「……あと五分だけ」

枕に顔をうずめながら呻く。

カーテンの隙間から差し込む朝の光が、やけにまぶしい。


「三分前にも、同じことを言っていました」


カーテンの隙間から差し込む光が、彼女の黒髪を照らす。

立っているだけで気品がある――そう、彼女の名は桐生里奈(きりゅう りな)。


アカディア学園の生徒会長。

全校生徒の憧れ。

そして、俺の――幼馴染み。


「なんで毎朝、俺の部屋にいるんだよ」

「起こさないと、また遅刻するでしょう?」

「いや、それはそうだけど……お前、俺の母親か何かか?」


「違います。」


淡々と返す彼女。

ほんと、朝から完璧すぎて腹が立つ。


(いや、ほんと美人なのに言葉が刺さるんだよなこの人……)


俺――日向勇気(ひゅうが・ゆうき)、二年B組。

恋人は同じクラスの朝霧玲奈(あさきり・れいな)。

そして、目の前の“完璧生徒会長”桐生里奈は――

俺の初恋の人であり、今でも未練を引きずる相手だ。


……まあ、未練って言うと聞こえが悪い。

俺はただ、彼女に一度くらい嫉妬してほしかっただけだ。

玲奈と付き合ったのも――きっかけのひとつ。


俺は布団を蹴飛ばしながら上体を起こした。

髪はボサボサ、寝癖フル装備。

その瞬間、カーテンを開けた彼女の動作が妙に絵になる。

朝日を背に立つその姿は、まさに絵画。

――俺が惚れた理由、こういうとこなんだよな。


でも、今の彼女にはその“ときめき”のかけらも伝わらない。

悲しいけど、事実だ。


「朝食の準備ができています。下へどうぞ」

「……了解しました、完璧人間様」

「皮肉は食欲の妨げになりますよ」


俺のツッコミが虚空に溶けた。




階下に降りると、食卓にはすでに朝食が並んでいた。

トースト、サラダ、ベーコンエッグ。

完璧な朝。完璧な準備。完璧な人間。

そしてもう一人――

食卓には義理の妹、日向美月(みつき)が座っていた。

淡い栗色の髪をまとめて、エプロン姿。

朝日を背に、どこか柔らかい雰囲気をまとっている。

桐生里奈が、静かに食器を並べる。

その動作一つひとつが、絵になる。

まるで高級ホテルの朝の風景。


「おはよう、お兄ちゃん。今日も寝坊〜」

「……いや、会長のモーニングコールがなかったら永眠してた」

「うわ、それ笑えないやつ……」


美月は俺と血のつながりはない。

再婚でできた義妹だが、家族仲はそれなりに良好……のはず。


ただ、美月は最近やけに“視線”が優しい。

……いや、優しいというより、何かを隠している感じだ。


「今日も桐生先輩、早いですね」

「当然です。遅刻など許されませんから」

「さっすが生徒会長」


「お兄ちゃん、皮肉っぽい」

「いやいや、褒めてるよ?」


俺が笑うと、桐生は無言で紅茶を口にした。

この沈黙――慣れてるけど、やっぱり居心地が悪い。


美月がこっそりと俺の顔を覗く。

(また、会長さんに見惚れてる……)

そう心の中で呟きながら、彼女は小さくため息をついた。


――俺はというと、箸を持ちながら軽口を叩く。


「会長ってほんと完璧ですよね。可愛げ以外は全部ある」

「可愛げ、ですか?」


「そうそう。ほら、笑うとか。照れるとか。

たとえば玲奈なんか、朝から“おはよう”って言うだけで笑顔満点だぞ?」


「……それは、あなたの彼女だからでは?」


「まあ、そうだけどさ。」

「なら、私は違うので必要ありません」


「即答っ!?」


ため息をつく俺を見て、美月が小さく笑った。

でも、その笑顔は少しだけ寂しそうだった。


「お兄ちゃん、玲奈さんの話ばっかりだね」

「え、そうか?」

「昨日も、“玲奈の作ったお弁当が可愛い”とか言ってた」


「ああ、あれか。いや、実際かわいかったんだよ。

たこさんウインナーが俺の顔になっててさ」


「……ふぅん」


美月のフォークが少しだけ強く皿を叩く。

音が、妙に鋭かった。


桐生が淡々と告げる。

「食器は丁寧に扱いなさい」


「は、はい……」


空気が凍る。


沈黙が続く中、俺はわざと話題を振る。

このままだと完全に家庭内氷河期だ。


「なあ、玲奈ってさ、俺の冗談でも“もう、勇気くんたら♡”って感じで笑ってくれるんですよ」

「……」


一瞬、里奈の表情がわずかに止まる。


でも――その次の瞬間。


ふわ、と。

ほんの一瞬だけ、頬がやわらかく緩んだ。

微笑とも違う。

思い出し笑いに近い。

彼女の瞳が、遠くを見つめるように柔らかく光る。


「……どうかしました?」

俺が尋ねると、里奈は小さく首を振った。


「いえ……ちょっと、いい夢を思い出していました」

「夢?」

「……ええ、そんなところです」


その横顔――

まるで昨日の誰かを、まだ心の中で抱いているような穏やかさだった。


(……なんだ、今の表情)


俺の心臓が、ドクンと跳ねた。

けど同時に、胸の奥が妙にざわつく。


美月は、二人の空気を読んで黙り込む。

その手はスプーンを持ったまま止まっていた。


「……ねえ、会長」

「はい?」

「なんか今日、ちょっと機嫌良くないですか?」

「そう見えますか?」

「ええ。てか珍しい。朝から柔らかい空気出してる」

「……そうですね。少し……“良い時間”を過ごしたので」


その言葉に、美月の手がぴくりと動いた。

俺も、箸を止める。


「“良い時間”って、誰と?」

「……秘密です」


その微笑み。

ああ、見たことないタイプの笑顔だ。


普段の彼女は、鋭くも柔らかい“公の笑顔”を浮かべる。

けど今のは――完全に“私”の顔。


(……まさか、昨日誰かと……?)


俺の脳内で危険信号が鳴り始めた。


(まてまて、会長が“デート”とか……ありえるか?)

(いや、でも表情が……完全に恋してる女の顔じゃねぇか!?)


俺が肩をすくめると、美月が微妙な笑みを浮かべた。


「お兄ちゃん、ほんと玲奈さんのこと好きなんだね」

「まあ、そりゃ彼女だからな」


「ふぅん……そうなんだ」


その“ふぅん”に、ほんの少し刺がある気がした。

でも、桐生の前でそんなこと口にできるわけもなく。

朝食は、静かに進む。

里奈は時々、どこか遠いところを見るような目をしていた。


(……やっぱり、誰かのこと考えてる)

(昨日、何があったんだ?)


俺は無意味に咳払いして、空気を変えようとする。


「そういえばさ、玲奈だったらこういう時――」

「――朝霧さんのお話は、今はいいです」


ぴたりと、彼女の声が重なった。

優しいけれど、決して笑ってはいない。


(……やば、地雷踏んだ?)


「……す、すみません」

「いえ。ただ、食事の時に他の女性の話を出されるのは……少し」


ほんの一瞬。

その“少し”の中に、かすかな嫉妬にも似た色が混じった。


でも――それは俺に対するものじゃない。

思い出の中の“誰か”に向けられた感情だった。

そう確信する根拠はない。

けど、学園で彼女が時折“誰か”を見る時の表情を俺は知っている。


(……くそ、まじで昨日、誰かとデートを……!?)


俺が思考を暴走させている間にも、里奈は優雅に食器を片づけていた。




「ごちそうさまでした」


桐生は立ち上がり、完璧な礼儀で一礼する。


「では、学校で」

彼女は靴音を響かせながら玄関を出ていった。


「……あ、ああ」

その背中を見送りながら、美月がぽつりと呟く。

「……お兄ちゃん、今日もその顔、してるね」

「どんな顔?」

「恋してる顔」


俺は息を飲んだ。


「なあ、美月」

「ん?」

「桐生、怒ってたと思うか?」

「ううん。……たぶん、何も感じてないよ」

「そっか」

「でも誰かに“比べられる”のって、誰だって傷つくんだよ」


その言葉が胸に刺さる。

美月の表情は優しいけど、どこか泣きそうだった。


「……お兄ちゃん」

「ん?」


「私はね、お兄ちゃんが笑ってくれるなら、それでいいの」


そう言って笑う美月。

その笑顔が、玲奈よりもずっと痛かった。


美月はいつもの笑顔に戻りながら、小さく言った。

「……行こ、遅刻しちゃうよ」


朝の光が差し込む玄関。

三人の心が、それぞれの方向へと少しずつ動いていく。


可愛げとは何か。

完璧とは何か。

そして――恋とは、どこまで愚かで、どこまで美しいのか。


そんなことを、俺は寝ぼけた頭のまま、ぼんやりと考えていた。

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