第5話 気難しいギルマスの心を動かす

一瞬の沈黙。

次いで、マスターが高らかに笑った。


「……はっはっはっ! なるほどな。見返りの話を忘れないあたり、取引をわかってる。いいだろう、悪くない話だ。一口乗ろうじゃないか」


笑い声が響いた瞬間、張り詰めていた室内の空気がほぐれた。


「職員たち、最優先案件だ。王家と取引のあった商人を、すべて洗い出せ。記録庫を開け。三時間、いや二時間以内にすべてを確認するぞ」


その号令と同時に、職員たちが一斉に動き出した。


◇◇◇


――数時間後。

夜の帳が下り、蝋燭の明かりが揺れる応接室で、私とイリス陛下は山のような資料を前に座っていた。


「王国にあるすべての資材所の記録を確認しましたが、どこからも、王宮への納入記録はありませんでした。ギルドを通さずに資材を仕入れることは、制度上ありえません。つまり、買い付け自体が行われなかったということです」


イリス陛下が息を呑む。


「……では、帳簿にあった修繕用の資材代は、やはり……」

「どこかへ消えた、ということですね」

「取引がなかったことはわかった。だが、帳簿が消失している以上、金が動いた証拠を提示することはできぬのでは?」


心配そうにイリス陛下が尋ねてきた。


「その通りです。ですので――ここから先は、私の機転が生きるところです」

「機転? また何か考えがあるのか?」


イリス陛下が小首を傾げる。

私は資料を丁寧に束ねてから、ギルドマスターに向き直った。


「とにかく、この取引がなかったという証拠を預からせてください。

これを手に入れられたことで、第一段階は完了です」

「第一段階?」


ギルドマスターが片眉を上げた。


「ええ。まだ終わりではありません」

「まあ、いい。好きに持っていけ。新政権が活躍する日を期待しているぞ」

「そう待たせないと思いますよ」


私は軽く笑い、頭を下げた。


◇◇◇


山のような資料を抱えて、外に出ると夜風が涼しかった。

街路を歩く二人の影が、石畳に並ぶ。


「今日は上手くいったな……。ありがとう、ユーマ。そなたがいて本当に助かった……!」


イリス陛下がくしゃっと笑う。

その表情には、年相応の無邪気な喜びが戻っていた。


「陛下の存在があったからこそ、ギルドマスターは私を信用してくれたのですよ」


私は帳簿の束を抱え直した。

そのとき、不意に風が冷たくなった。


――街の明かりが、一瞬だけ揺らいだ気がした。


「……妙ですね。まるで誰かが、灯を吹き消したような」

「え?」


イリス陛下が不思議そうに振り返る。

次の瞬間――遠くで叫び声が上がった。


「火事だ! 南区だ、商人ギルドの方角だ!」


イリス陛下の足が止まる。

焦げた匂いが風に乗って届いた。


「商人ギルド……? まさか!」


書庫の時と同じ、また火だ。

真実に近づくたび、何かが燃える。


私は一瞬だけ、唇の端を吊り上げた。


(証拠を握った途端に燃やしに来るとは、わかりやすい)


敵が焦っている証拠だ。

つまり、もう少しで根に届く。


次の瞬間、――南の空が赤く裂けた。


◇◇◇


商人ギルドは赤く燃え上がっていた。

瓦礫の下から悲鳴が上がり、逃げ惑う人々が押し寄せる。


燃え移りを防ぐために周囲では市民たちが水桶を運んでいるが、焼け石に水だ。


「陛下、水魔法を! 暴走させても構いません、目いっぱいやってください!」

「わ、わかった!!」


イリス陛下が両腕を広げ、水魔法を放つ。

だが炎はしぶとく、抗うように水を弾いた。


「まだ威力が足りない!」


イリス陛下は唇を噛み、さらに魔力を解き放つ。


次の瞬間、轟音とともに、巨大な水流が夜空を貫いた。

それは滝のように降り注ぎ、炎をまとめて押し流す。

爆ぜる音が、ひとつ、ふたつと消えていく。

赤々と染まっていた空は、みるみるうちに蒼へと戻っていった。


「鎮火だ!」


誰かが叫んだ。

安堵の声が次々に上がり、周囲に歓声が広がる。

人々の視線が、陛下へと向いた。


「さすがです、陛下!」

「イリス王が炎を鎮めたぞ!」


人々の歓声の中、イリス陛下は涙をぬぐいながら立ち尽くしていた。

その姿を見て、私は静かに息を吐いた。


(……これだ。今日、王は初めて『民の前で王だった』)


帳簿という証拠は燃えても、信頼という新しい礎が築かれた。

それこそが、今日の最大の成果だ。


ただ、私たちはまだ手放しには喜べなかった。


「……うそ、こんな……」


背後を振り返った陛下の顔が途端に曇る。


火は確かに消えた。

けれど、地面には崩れ落ちた建材、血に染まった石畳、負傷し動けぬ人々。

一帯には、見るも無残な光景が広がっていた。


崩れた壁の陰では、うずくまる男が呻いている。

その傍らには治癒士らしき女性がいたが、すでに息が上がっている。


「魔力が足りません! 他の方を呼んで――!」


声を聞いたイリス陛下が、険しい顔でこちらを向いた。

陛下の瞳は揺れていた。


「今……は犯人を追うよりも、命を救わねば。だが、問題がある。王都の治癒士は、ほとんど国境の前線に借り出されておる。今この街には、数えるほどの治癒士しか残っていない」

「なら、治癒士の不足を補います」


次々に厄介な事態が襲いかかる。

だが、怯むわけにはいかない。

特に今回は、負傷者が出ている。

一人でも多く救わねばならない。


私はすうっと息を吐き、改めて状況を確認した。


混乱する現場、限られた人員。

必要なのは、指揮と秩序だ。


(この救助で得られる証言が、必ず不正を暴く鍵になる――)


夜風の中、私は声を張り上げた。


「負傷者を集めて! 止血班、搬送班、治癒班に分けてください! なんとしても命を繋ぐのです!」

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