夢双物語

第1話「上陸」

青いガラスのように透き通る海面が広がるオリンター海は、今日も静かに波を打っていた。雲一つない青空の下、一隻の小さな客船が水面を進んでいく。

客船の名前は「ノタール船六号」といい、現在ペドラー帝国の東港に向かっていた。

「カントさん！　ノタール船六号から『もうすぐ到着する』と連絡がありました！」

報告を受けた男が、目を見開き慌てて時刻表を見直す。

「なんだと！？　予定よりも1時間早いじゃないか！」 男は声を港全体に響かせるように張り上げた。 「すぐに係留作業の準備をしろ！」

命令が飛び、港がざわつき始める。人の声や金属がぶつかる音が、あちこちから聞こえてきた。

そうして三十分も経たずに、ノタール船六号は東港へ到着した。

甲板で港の匂いを大きく吸い込み、呼吸を整えていた男が静かに呟く。

「ここがペドラー帝国か……やっと着いたな」

男は手に持っていた手紙を数秒見つめた後、ポケットにしまい込む。その目は、何かを決意しているようだった。

下船の指示が出る。乗客たちが動き始める頃、男はすでに甲板にはいなかった。

男が桟橋を渡っていると、目の前にとても大きな建築物が聳え立っていた。それは見上げるほどの巨大な円状の木造建築物――巨木のように自然的で、縦に長く美しい構造をしていた。

「あれは一体……？」

建築物の周りは海に囲まれ、さらにその海を円状に桟橋が取り巻いていた。何より不思議なのは、崖と建築物の間に橋が架かっていることだ。崖はオリンター海とは反対側にあり、その付近が港となっていた。

「少し、あれについて聞いてみるか」

男は偶然近くを歩いていた、白い帽子を被った男に近づき声をかけた。

「すまない、少し聞きたいことがあるのだが……」

声をかけられた白い帽子の男は振り向き、笑顔で返事をする。

「ん？　なんだい？」

白い帽子の男は青と白のボーダー柄のTシャツを着ていて、右目に眼帯をつけていた。髭は白く、整えられたロワイヤルスタイルだった。

「名前は……なんていうんだ？」

「カントっていうんだ。次、あの船を操縦する船長さ」

そう言ってカントは、先ほど男が乗っていたノタール船六号を指さした。

「船長なのか。では一つほど質問したいのだが……」

男は、聳え立つ巨大な木造建築物について質問をした。

「……ああ、あれか。あれは海上縦型港町だ」

カントは今度は崖を人差し指で指差し、そのまま説明を始める。

「東門を崖ぎわ付近に建てたせいで、港町の元の建築計画が崩れたんだ。そこで東門に行けるように考え、この浅い海に人工の木の地盤が設けられたんだ」

「にいちゃん、東門に行きたいなら、この港町にかかっているあの橋を渡るんだ」

「そうか、教えてくれて感謝する」 男は港町の入り口へと向き、スタスタと歩いて行った。

「おう！　気をつけてな！」

カントの明るい声が辺りに響く。

「……にしてもあのにいちゃん、全身黒かったなぁ。黒いジャージに黒い長ズボン、おまけに背中には抜き身の剣。一体何者なんだ？」 カントは、ぽつりと不思議そうにつぶやいた。

「カントさん！」 部下の声が遠くから聞こえてきた。

「そろそろ戻るか」 カントはそう呟き、自分の持ち場へと戻って行った。

数十分後、男は港町の内部で迷っていた。本来なら迷うような要素などどこにもない。

一階は広々としたホールとなっており、その床はガラス張りで浅い海の中が見える。ホールの中心から螺旋階段が上に伸びている。螺旋階段を上がった上階には、店舗が階段を囲むように配置されている。

「また同じ店か……ここは今、何階だ？」

男は同じ階をグルグルと周回していた。お土産屋、干物屋、レストランなどの様々な店舗、観光客らしい家族連れ、店先で勢いよく呼び込みをする少年、すれ違いざまに軽く肩をぶつけていく商人——だが、その中で男の足がふと止まる。

「……『海猫カフェ』？」

木の看板に描かれていたのは、二本の尻尾に赤い色合いを持つ猫の絵。店の名前は、赤い文字が浮き出ていた。

ぐーぐー

男の腹が鳴る。

「そういえば、まだ昼飯は食ってなかったな」

男はそのまま店の扉を開けた。

ギィィ

木の軋む音とともに、焙煎されたコーヒー豆の匂いが中から漂ってくる。それと同時に、カウンターにいた店員の少女が

「いらっしゃいませ」

と丁寧な口調で挨拶をする。

「この店のオススメの料理はなんだ？」

男はカウンター越しに声をかけた。少女はニコリと笑い、

「当店のオススメ料理は、海猫オムライスです！」

と元気よく答えた。

「じゃあ、それを頼む」

即答だった。

「かしこまりました！」

少女は小気味よく返事をすると、くるりと背を向け、厨房へ消えていった。

男は空いていた窓際の席に腰を下ろし、窓の向こうを見た。まだ時刻は昼過ぎで、店には男以外の客はいなかった。

やがて、湯気を立てながら皿が運ばれてくる。

「お待たせしました、海猫オムライスです！」

ふんわりとした卵がとろりと広がり、ケチャップで猫の顔が描かれている。男はスプーンを手に取り、ひと口を運んだ。

「ん、うまいな」

感想を述べるでもなく、小さく満足げに呟いた。

皿を綺麗に平らげ、男は再び窓の向こうを見る。青く輝くオリンター海の遥か先——大きな背びれが動いている。鋭すぎず、丸すぎないその背びれは、徐々に桟橋へ近づいてきていた。

「……なんだ、あの背びれは？」

そのとき、店員の少女がこちらにやってきて、

「あれは、シーサーペントですね」

と言い放った。

「シーサーペント……なんだそいつは」

「えっと、北の海に生息する魔物です。主に人間や人魚を食べるのですが、最近はなぜか東の海でも目撃されているのです」

「そうか……説明してくれてありがとう」

男は机に代金を置き、スッと立ち上がった。そして、そのまま席を後にした。

一方、桟橋では——

「カントさん！　東北からシーサーペントと思われる生物が、ものすごいスピードでこちらに急接近しています！」

「なんだと！？　また来たのか。聖騎士団にすぐ連絡しろ！」

「はい！」

カントの部下が走り出した瞬間、別の個体のシーサーペントが突然、海面から飛び出し、部下に喰らいついた。そのまま海へと引きずり落とす。

バシャ

水飛沫とともに、水面に赤い染みが広がった。

カントは、死にゆく部下を呆然と見守ることしかできなかった。海面から、青白い体色を持つシーサーペントが顔を出す。

カントは後ずさる。次の瞬間、彼の横に大きな口が現れた。それは急接近していた個体の口だった。カントの体は動かない。諦めの二文字が頭に浮かんだ、その刹那——

ズバッ

肉が断ち切れる音が響いたかと思うと、シーサーペントの体が輪切りにされ、バラバラと海面へ沈んでいく。

カントの目の前に立っていたのは、黒いジャージを着たあの男——彼がそこにいた。

「……君は、さっきの？」

カントは恐る恐る聞くと男はゆっくりと振り向き、白い瞳でカントを見つめながら静かに言った。

「カントさん、名前を言い忘れていたな。ロバート・シュウト——それが俺の名前だ」

シュウトの黒髪が風に揺れる。もう一体のシーサーペントがシュウトに飛びかかる。シュウトは跳び上がり、シーサーペントの後方へと着地した。

次の瞬間、シーサーペントは硬直し、体のあちこちから紫色の血を噴き出す。そしてカントの目の前で崩れ落ちた。

「この程度では、酒呑童子を倒せない。もっと強くならなければ」

シュウトはそう言い残し、その場を去っていった。