第2章「鏡の中の、あなた」

 金曜日の夜。今週も達也は午前一時を回って帰宅した。週末だが、土曜日も出勤する予定だった。プロジェクトのデッドラインが迫っている。


 彩花は今夜も寝たふりをしていた。

 もう一週間以上、まともな会話をしていない。

 心の距離はますます広がっている。


 達也はシャワーを浴びた後、ベッドに倒れ込んだ。疲労が全身を支配している。妻の背中を見ながら、何か言いたいことがあったはずだが、言葉が出てこない。


 彼はそのまま深い眠りに落ちた。


 その夜、二人は奇妙な夢を見た。


 彩花の夢——彼女は暗闇の中にいた。

 遠くに光が見える。その光に向かって歩いていくと、そこには鏡があった。鏡の中には達也の姿が映っている。彩花が手を伸ばすと、鏡は水のように波打ち、彼女の手は鏡の中へ吸い込まれていった。


 達也の夢——彼も同じような暗闇の中にいた。

 光の方へ歩いていくと、鏡があった。鏡の中には彩花の姿が映っている。達也が触れようとすると、鏡は溶け、彼の身体は鏡の中へ引き込まれていった。


 そして二人は、同時に同じ声を聞いた。


「互いを理解することなく、愛は続かない――」


 それは誰の声かわからなかった。

 男性でも女性でもない、性別を超えた声。


「七日間、相手の人生を生きなさい。そうすれば、今まで見えなかったものが見えるてくるだろう」


 翌朝、土曜日。

 午前七時。


 彩花——いや、彩花の身体の中にいる達也——は目を覚ました。


 最初、彼は何が起こったのかわからなかった。天井がいつもと見慣れない角度にある。身体に違和感がある。軽い。柔らかい。何かが……おかしい。


 達也は跳ね起きた。そして、自分の手を見た。


 それは自分の手ではなかった。細く、爪には薄いピンクのマニキュアが塗られている。女性の手だ。


「え……?」


 出た声は、自分の声ではなかった。高い。女性の声。つまり、彩花の声。


 達也はパニックになり、鏡台に駆け寄った。そこに映っていたのは——彩花の顔だった。


「うわあああああああああっ!」


 達也の悲鳴が響いた。


 その悲鳴を聞いて、今度は別の人物が飛び起きた。


 彩花の身体の中にいる達也ではない。

 達也の身体の中にいる彩花だ。


 彩花も同じように自分の変化に気づき、声を上げた。しかし出てきたのは達也の低い声だった。


「何これ……何が起こってるの……!?」


 二人は同時に寝室の中央で向き合った。


 達也の身体をした彩花と、彩花の身体をした達也。


 しばらく沈黙が続いた。


 そして二人は同時に叫んだ。


「「入れ替わってるーーーーっ!?」」


 パニック状態の二人はしばらく混乱した。これは夢ではないのか。二人は何度も確認した。しかし、現実は変わらなかった。


 彼らは本当に入れ替わっていた。

 二人はただ、呆然とするしかなかった。


 やがて達也(in 彩花の身体)は自分の胸を見下ろし、顔を赤らめた。


「うわっ……そうか……これ、本物か……」


「触んないで! 見ないで揉まないでそもそも認識しないで!」

「いや、それは無理だろ……」


 彩花(in 達也の身体)が怒鳴った。その声は達也の声なので、妙な感覚だ。続いてぼやく達也の声も彩花のものなので妙な感じだ。


 彩花は自分の——いや、達也の——手を見た。大きくて、ごつごつしている。そして下半身に妙な違和感がある。


「なにこれ……一体どうなってるの……」


 彼女は自分が男性の身体になっていることを実感した。


 二人はしばらく呆然としていた。そして、達也が言った。


「落ち着こう。まず状況を整理しよう」


「落ち着けって言われても……!」


 彩花は混乱していた。


「とりあえず、服を着よう。このままじゃ……」


 二人はパジャマ姿だった。達也(in 彩花の身体)は彩花のパジャマを着ており、それが妙にフィットしていることに戸惑っていた。


 彩花(in 達也の身体)も同様に、達也のパジャマが自分の身体に合っていることに驚いていた。


 二人は着替えることにした。

 しかし、それが最初の試練だった。


 達也は彩花のクローゼットを開けたが、そこには見慣れない服ばかりが並んでいた。スカート、ブラウス、ワンピース。どれをどう着ればいいのか。


 特に問題だったのは、下着だった。


「これ……どうやって着るんだ……」


 達也はブラジャーを手に取り、困惑した。


 一方、彩花も達也のクローゼットの前で立ち尽くしていた。スーツ、シャツ、ネクタイ。着慣れないものばかりだ。


「ネクタイって……どう結ぶんだっけ……」


 二人は互いに助けを求めた。しかし、教えることすら難しかった。達也は女性の下着の着け方を知らないし、彩花もネクタイの結び方を完璧には知らない。


 結局、二人は四苦八苦しながら、なんとか着替えを完了した。

 三十分以上かかってしまった。


 鏡の前に立った二人は、改めて自分たちの姿を見た。


 達也(in 彩花の身体)は、彩花が普段着ている服を着ている。しかし、所作が男性的で、違和感がある。


 彩花(in 達也の身体)は、達也のスーツを着ている。こちらも所作が女性的で、ぎこちない。


「これ……どうすればいいの……」


 彩花が不安そうに言った。


 達也は考えた。今日は土曜日。彼は会社に行く予定だった。しかし、この状況では無理だ。


「とりあえず……会社に休むって連絡する」


「でも、大事なプロジェクトがあるんでしょ?」


「それどころじゃないだろ! まずこの状況をどうにかしないと……」


 達也は——彩花の身体で——スマートフォンを取り出そうとしたが、それは彩花のスマートフォンだった。自分のものは、達也の身体を持つ彩花の側にある。


「あ……」


「はい、これでしょ」


 彩花は達也のスマートフォンを渡した。


 達也は会社に連絡した。上司に「夫が体調不良のようなので休ませてください」と伝えた。もちろん、彩花の声で。


 上司は驚いた様子だったが、了承した。


「彩花は? 今日、パートは?」


 彩花は首を横に振った。


「今日はシフトに入ってない。良かった……」


「良かったって……確かに今日はよかったけど……これ、いつまで続くんだ?」


 二人は顔を見合わせた。わからない。原因も、解決方法も、何もわからない。


 達也はふと、夢のことを思い出した。


「なあ……昨夜、変な夢を見なかったか?」


 彩花は目を見開いた。


「見た……鏡があって、そこに達也が映ってて……」


「俺も同じだ。鏡にお前が映ってて、引き込まれた……」


 二人は同じ夢を見ていたことに気づいた。


「それと……声が聞こえた」


 彩花が言った。


「「七日間、相手の人生を生きなさい……って」」


 二人は同時に同じセリフを口にした。


「じゃあ、これって……」


「七日間続くってこと……?」


 二人は絶句した。

 七日間。

 一週間。

 その間、互いの身体で生きなければならない。


「無理だよ……私、達也の仕事なんてできない……」


「俺だって、お前の生活なんて……」


 二人は不安に押し潰されそうだった。


 しかし、達也は気づいた。これは、ただの悪夢ではないのかもしれない。あの声は言った——「互いを理解することなく、愛は続かない」。


 これは、試練なのだろうか。それとも、チャンスなのだろうか。


 達也は深呼吸をした。


「落ち着こう。まず、今日一日をどう過ごすか考えよう」


 彩花は不安そうに頷いた。


「うん……」


 二人はリビングに降り、向かい合って座った。


「今日は休みだから、家にいられる。でも……月曜からはどうする?」


 達也の問いに、彩花は答えられなかった。


「私……あなたの仕事、できる自信なんてないよ……」


「俺も、お前の仕事……」


 達也は言葉を切った。

 彩花の「仕事」とは何だろう。

 パート? それとも、家事?


「あのさ……お前、?」


 達也の質問に、彩花は少し傷ついた表情を見せた。


「何してるって……家事、全部やってるでしょ」


「ああ……そうだな……」


 達也は気まずそうに視線を逸らした。


「月曜と水曜と金曜はパート。火曜は買い物。木曜は掃除の日。土曜は……達也が家にいることが少ないから、自分の時間……でも最近はそれもなくなったけど」


 彩花の説明を聞いて、達也は初めて妻の一週間を知った。


「そんなにきっちり決まってるのか……」


「だってそうしないと、回らないから」


 彩花の声には疲れが滲んでいた。


 達也は罪悪感を覚えた。

 自分は妻の生活を何も知らなかった。

 そのことがなぜかひどく罪深いことに思えた。


「で……俺の仕事だけど……」


 達也は説明し始めた。

 プロジェクトマネージャーとしての責任、複数のプロジェクトの管理、クライアントとの折衝、チームメンバーのマネジメント。


 彩花は聞きながら、圧倒された。


「そんなに……いっぱい……大変じゃない……」


「まあ……な」


 達也は肩をすくめた。


「でも、自分が選んだ仕事だから」


「私だって……前はデザイナーだったのに……」


 彩花の小さなつぶやきに、達也は驚いた。


「え……?」


「何でもない」


 彩花は話題を変えた。


「とにかく、月曜からどうするかよね」


 達也は考えた。


「俺がお前の身体で、お前の生活をする。お前が俺の身体で、俺の仕事をする……しかない、よな」


「でも……」


「大丈夫。仕事のことは、できるだけ教える。お前も、家のことを教えてくれ」


 彩花は不安そうに頷いた。


「わかった……」


 二人は週末を使って、互いの生活を学ぶことにした。


 しかし、それは想像以上に困難な道のりであることを、まだ二人は知らなかった。


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