黒猫の輪舞曲

一野 蕾

夜も歳も更けてまいりましたので。



 山と工場と、星空しかないような町だから。

 若者はみんな同じ場所に集まってはしゃぐ。


「トリックオアトリート! お菓子くれなきゃいたずらするぞー!」


 ずいと差し出されたプラスチック製のカボチャに、チョコレートを二個、三個入れてやる。


 お向かいに住む吸血鬼のタク坊はニッと牙を見せて笑った。タク坊が走り出すと、二軒先の魔法使いのミカちゃんはステッキを振ってくれた。キラキラのモールを巻きつけた星が曲がり角に消えていく。

 転ぶなよ、と声をかけたが、きっと聞こえちゃいないだろう。民家の集まった区画の方では子どもたちの声がポップコーンのように弾けている。厳格で頭でっかちな大人ばかりのこの町で、子どもが遅くまで騒げるのは元旦と十月末日だけ。気持ちは分かるし、自分も昔はそうしていたが、今となっては少し眩しい。


 目を閉じてジンジャーエールをあおれば、まぶたの裏にエナメルの七色が軌跡を残していた。去り際にかけられた魔法がまだとけていないようだ。


「呑んでっかークロ?」

「っ、ぐ」


 背中を叩かれた拍子、炭酸が牙を剥いた。


「あ、悪い。——てか、なんだ。お前呑んでねぇじゃん」


 友人が置いたジョッキの隣で、グラスに張り付いた泡が儚く溶けていく。


「あー……今日は呑まなくていいかなって」

「せっかくのハロウィンなのに勿体ないこと言うなよ」

「酒なんていつでも呑めるだろ」

「同級生揃って呑み会開けんのはこういうイベント事くらいだろーが。仮装なしでも参加オッケーにしたんだから満喫しろよぉ」

「四人しか集まらなかったのいつまで引きずってんだよ」


 大多数の同級生にならって去年は不参加だった分、この日を楽しみに思っていたのは事実だ。

 だけど、浮ついた町の空気を吸って、吐ける息が俺にはなかった。

 身長百八十センチの大男の猫耳に心も踊らないし。去年の失敗を踏まえて律儀に道化を演じている友人を、俺じゃ笑ってあげられない。


「ごめん、俺帰るな。これ参加費」


 店の奥からこちらに向かってくるミヤコちゃんに手を振って、その場を離れた。



「あっおい、クロぉ」

「止めないであげなよ。クロちゃん、今日はお酒のむ気分になれないでしょ」

「なんで?」

「知らないの? クロちゃんちの猫、今日死んじゃったんだよ」

「え……クロが?」





 吸血鬼と魔法使いが歩いた道は思っていたより暗い。あの子らは無事に帰りつけただろうか。


 通りを一本外れただけなのに、呑み屋通りの喧騒が遠く聞こえる。ハロウィンの夜に家に引っ込んでいる町民は少なくて、いたとても早急に床についてしまっている場合が多い。人の気配もなく、漏れ出る部屋の明かりもない。山あいの町は暗闇の中にあって、点々と立ち並んだ街灯なんかじゃ太刀打ちできそうもない。夜目を頼りに住宅地の裏を歩く。

 夜風はとっくに冷たくなった。冬の匂いに、服に染みついた酒のにおいが混ざっていた。のどに残った炭酸が苦く感じる。

 身体はとっくに冷えていた。十年連れ添った愛猫の亡骸のように。


 今朝、クロが死んだ。


 名前の通り真っ黒な毛並みのきれーな猫だった。クロって名前は俺がつけた。小学生の頃の話だ。だって分かりやすい方がいいだろ。

 あったかい猫だった。小さな温もりは俺と家族とずっと共にあって、その小さくてしなやかな身体で、人間より早い鼓動で、無邪気に寄り添ってくれていた。

 大往生だったと言える。子猫を産んで病気にもならず、おばあちゃん猫になって静かに息を引き取った。今朝九時のことだ。

 自分のあだ名と同じ名前をクロにつけたあの頃、クロが死ぬ日が来るなんて思ってもいなかったな。ずうっと一緒にいるもんだと思ってた。縁側に座って膝に乗っけて、春風に当たったり、星を眺めたりして。寒がりだからすぐに部屋の中に戻りたがってた。


 夜風にうながされて星空を仰ぐ。

 暖かい日差しに照らされながら逝けて良かったと思う。肉体を抜け出た猫がどこへ往くのか知らないが、寒くて騒がしい今日の夜を歩くよりはずっと良かっただろう。

 酒を呑んでおくべきだったかも知れない。あの温もりがないと、夜が寒い。


「寒いですか? 家までお供しましょうか」


 袖を引かれる感覚があった。俺にかけられた声だとすぐに分かった。なんせ足元から聞こえた。


「え……——えっ?」


 左手を見やると、そこには猫が立っていた。

 嚥下障害でも患ったのかすぐに飲み込めなかったので、もう一度。

 猫が、立っていた。


「あ、袖をひっぱらないで! 爪がひっかかっちゃいました」


 後ろ脚で器用に立ち上がった黒猫はそう言って、前足の片方で俺の服の袖を掴んだ。刺さった爪をそっと引き抜くと、見覚えのある笑顔で俺を見る。


「ちょうど、一度帰ろうかと思っていたところなんです。お気に入りのハンカチを着ようと思って。だって記念すべきハロウィンの夜ですものね。おめかししなくちゃ」


 にゃへ、にゃへ、ゆるゆる上がった口角の隙間からちっちゃな牙が見える。その後ろで自由に動く舌は、しょっちゅうしまい忘れていたくせに的確に言葉をつむいでいる。


 猫が? 言葉を?


 素面なのに、幻覚を見ているのだと理解するのに時間がかかった理由は明確だ。二度と笑わなくなったこの顔を、今朝見収めたばかりだから。


「ク、クロ……? クロなのか……? なんでここに」


 幻覚に話しかけるなんて、馬鹿をやってる自覚がある。

 幻覚の直立する黒猫は、俺を見上げてにっこりと笑い答えた。


「夜も歳も更けてまいりましたので」


 ……そっか。


 素面の俺は、幻覚を笑い飛ばすことができなかった。



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