第7話 優しさ
「来ないなぁ……」
何人かの指名客を相手して、控室に戻ってきた。今日も酒場は盛況だが、毎日のように通ってくれていたテオドアの顔はない。
「テオドア様のこと?
リナって、町の情報に
「なに? ライラ何か知ってんの?!」
「有名な話よ? テオドア様、ここに通うのに家のお金に手を付けていたんですって
それがバレてご両親はカンカン! テオドア様は店の下働きから商人修行をやり直すんですって」
あんたのせいでお気の毒よね〜、とライラはケラケラ笑いながら俺の肩をバシバシと叩く。
「まぁ、テオドア様のほかにも、リナに入れ込んでるお客様は沢山いるから、痛くも痒くもないでしょ」
「え、なに、ライラにしては俺を持ち上げるじゃん」
そう言うと、ライラはニッコリと営業用の美しい微笑みを乗せて、俺に向き直った。
「リナ、お願いがあるの!
私に読み書き教えて!」
「え?!
あの、『読み書きなんて必要ないわ、私にはこの類まれなる
俺は時折、この控室でキャストの皆に読み書きを教えていた。町人は読み書きができない人がほとんどだ。だが、文字が読めなければ、契約書が読めずに不利益を被ったり、文字が書けなければ書類にサインもできない。
だから俺は、学びたい人がいれば、誰にでも教えていた。ライラはそれを横目で見ながら、先ほどのようなことを高らかに言い放っていたのだ。
「……ちょっとした契約を結ぶかもしれないのよ
リナも言ってたでしょ?
契約書はちゃんと読んでからサインしないと大変なことになるって……だから……」
もじもじとバツが悪そうにお願いするライラは、年上なのに
「うわぁ、あざとい!! ライラの客の気持ちがわかっちゃうかも、……やだぁ〜〜」
「なんだと?! リナのくせに!!」
ライラが俺のお腹めがけて、わしゃわしゃとくすぐりを仕掛けてくる。あはは! と笑いながら互いの指名が入るまで、と決めて、控室で読み書きのレッスンを始めた。ライラは元々の頭がいいから、すぐに要領を掴むだろう。
華やかに化粧を施し着飾った姿で、真剣に読み書きを練習する横顔は、この上なく美しかった。
「へっくし!!」
自分のくしゃみで目が覚める。
「……うう、流石に寒い……」
この部屋は地下にあるため地熱によって意外と冷えないのだが、日はまったく差し込まない。流石に外気が冷たくなり、地中の温度が下がってくると、今度はしんしんとした冷たさが部屋を覆うようになる。
「去年までの毛布は流石にボロボロになって使えなくなったんだよな……
……屋敷の廃棄見に行くか……なかったら、購入したほうがよさそうだなぁ」
基本的に、この屋敷で暮らすにあたって、支給されるものは何もない。衣食住、すべてにおいて。
おそらく、エネアに言えばすべて揃えてくれるだろうが、そうすれば俺の今の扱いがすべてエネアの知るところとなってしまう。
……そんなことはできない。
ただでさえ、4年前のあの事件のせいでエネアと両親の間には深い溝ができてしまっているのだ。これ以上、エネアと両親が仲違いする理由を作りたくない。
両腕を抱きしめるようにしてさすりながら、身体を起こしていく。
珍しい。エネアの執務室に出勤すると、スザンヌの姿が見えない。代わりに、朝から見かけることは珍しいエネアが執務机に腰掛けている。
「おはようございます、エネア様
今日、スザンヌさんは……」
「今日は遣いに外へ出てもらっているんだ
……リナ、二人きりの時くらいは昔のように呼んでくれないか?」
自分の机に向かおうとすると、席から立ち上がったエネアが目の前に歩み出る。
「……エネア、兄様?」
エネアの美しい顔に、大輪の花が
24歳、こんな美青年がまだ婚約者も作れないなんて……そりゃあエレインにも使用人たちにも、俺は恨まれるわけだと妙に納得してしまう。
「ふふ、久々だな、この響き」
「……そうですね、昔はよくエネア兄様の後をついて回っていましたよね」
俺がまだ小さかった頃、エネアが屋敷に来たときは常にエネアの周りをうろちょろしていたように思う。
七つも歳が離れているというのに、エネアは嫌がることもなく、いつだって俺を可愛がってくれた。
「エネア兄様の膝の上に乗って、一日中絵本を読んでもらったら、次の日エネア兄様の声が出なくなって大変でしたね」
「自分のせいだって、リナが一日中泣くものだから、そちらのほうが大変だった!」
「ええ? そうでしたか?」
ふふ、と2人で笑い合いながら思い出に
この屋敷で過去をこうして語り合えるのはエネアしかいない。彼がいるから、俺はなんとかこの屋敷で耐えてこられた。
屋敷が嫌になって、幼い身で屋敷を飛び出したところでΩは
「リナルド、困っていることはないか?」
「……エネア兄様、僕は大丈夫です
いつも、気にかけてくださってありがとうございます」
目の前のエネアは、しかし眉を困ったように下げて、そっと俺の首元に手を伸ばす。
使用人用のシャツのハイカラーの下には、黒革の首輪が隠れている。エネアはそれをなぞるように撫でた。
「……発情期はどうしてるんだい?
本当に困ってはいないのか?」
エネアの美しい水色の瞳が伏せられ、まつ毛が震えている。そんなことまで、この優しい従兄は心配してくれているのか。
「問題ありません
僕はまだ発情期が来たことがないんです
もしかすると、成長が遅いのかもしれません」
「……、そうか
もし、困ることがあれば、一番に私のところへおいで
必ず私が、リナの力になる」
エネアは今度は力強く、まっすぐに俺の瞳を見つめながら伝えてくれる。
エネアは、もう十分に俺の力になってくれた。
抑制剤を飲んでいることは伝えていない。エネアのことだから、きっと抑制剤の支給をエレインが止めてしまったことを知れば心を痛めるだろう。そもそも、そんな物は支給されていないことにしておいたほうがいい。
来月にはもう、俺は誰の庇護も受けなくて良い歳になる。エネアも自由になっていいのだ。
7年前、俺を助けてしまったから、エネアは責任を感じたんだろう。
もう24歳だというのに、山のように寄せられる見合いを断り続け、ずっと屋敷で男爵のサポートをし、俺の世話をしている。
使用人たちは俺のようなΩのせいでエネアが結婚できないのだと、よく噂している。その通りなのだ。
優しすぎる俺の従兄は、俺を追い出すことができず、結婚することもできない。
「エネア兄様。
僕は来月には成人します
もう、エネア兄様のお手を煩わせることはありません
どうか、安心なさってください」
エネアの手を優しく俺の肩から下ろす。
その手を、ぎゅ、と握りながら、エネアを見つめる。
優しいエネア兄様。どうか、俺のことは忘れて幸せになってほしい。
「……リナ……
私が男爵になった暁には、君を必ず私の家族として確たる地位を与える
両親を止められず、君には苦労ばかりさせてしまってすまない
私は──……」
コンコン、軽快なノックが執務室に響く。
「失礼、エネア殿は──……
おやおや、これはこれは、お邪魔だったかな?」
突然、執務室の扉が開いたかと思うと、レイが顔を覗かせる。
「! レイ殿下! どうなさったのですか」
エネアが咄嗟に俺を背後に隠し、レイへと向き直る。
「いやぁ〜、時間ができたものだから、町でも案内してもらおうかと思ったんだが、いやはや、まさか禁断の恋を目撃してしまうとは……」
レイは面白そうに声を弾ませながらレイをからかい始める。
ほんっとうにこいつは性格が悪い。
なんで職場で話をしているだけで『禁断の恋』なんだよ。
「殿下、王族とは言えあまりにも失礼ではありませんか?
エネア様とたかが使用人に何かあるわけがないでしょう!
エネアの背後から顔を出し、レイに噛み付く。
「おや、エネア殿によく懐いているようだな」
「申し訳ありません、殿下
幼い頃から共に育ったもので……
リナ、殿下にそのような物言いは褒められたものではないぞ」
「ははは! 構わない
珍しいものが見れた!
では、エネア殿、一緒に遊戯室へ行ってくれるか?」
「ええ、もちろんです
リナ、行ってくるね」
「はい、いってらっしゃいませ」
執務室を出て深く腰を折り、二人を見送る。
しばらくして頭を上げると、それを見計らってかレイが振り返りこちらにウィンクして見せた。
……あの王子、本当に人を馬鹿にしてるよな。
にこり、と毒を含んだ微笑みを返し、エネアの執務室へ戻った。
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