第2話 魔法使いと婚約

 リウが目を覚ましてから一週間が経った。

 新しく処方された強い痛み止めのおかげもあり、なんとか日常生活を送れるようになっていたリウは、朝から自室で竜騎士団の制服に袖を通していた。

 リウの暮らす部屋は主に独身の竜騎士が暮らす宿舎だ。そのため今回の事件を受けた城内の混乱の様子や、竜騎士たちからの王子に対する不満はいやというほど耳に入った。

 竜を殺すなんてという憤りと、殺されたショアへの悲しみを口にする竜騎士は多かったが、その反面リウの身体に刻まれた呪いは書いて字のごとく腫れ物のように扱われた。

 竜騎士でありながら竜の呪いを受ける――第二王子が悪いのは分かっていつつも、前例のない不名誉ではないかという話も耳に入ってしまった。

 とはいえ事件発生から三週間も経てば、事件も表面上は解決し落ち着きを見せていた。

 大事な竜を喪った竜騎士団の悲しみは癒えないが、それでも国に属する彼らはいくら不満があろうと任務を遂行するしかない。

 王子を庇って呪いを受けたリウもそれは同じだった。

 なにより多少の痛みを押してでも、相棒であるガジャラに会いたかった。

 ガジャラの背に乗り大空を飛べば、心のモヤつきも自分の運命も吹き飛ばしてくれる気がする。

 リウは着慣れた制服の裾を払い、背筋を伸ばした。

 動作一つで関節の辺りが鈍く痛むが、大きく息を吐いて気合いを入れる。

「よし、行くか」

 副団長の叙任式の日程が決まるまで休暇を取るように言われていたが、ただの散歩でガジャラの様子見ならば問題ないだろう。

 リウはそう考え、痛み止めを飲んでいても軋む身体を引きずって宿舎を出た。

 手摺りを持って慎重に階段を降り、外扉を開けて竜舎へと向かう道を歩く。

 長く部屋から出ていなかった生活のせいで、見慣れたはずの景色も鮮やかに見える。流れ込む風も新鮮な気がして、思わず胸一杯に息を吸い込むが、途端に肺が痛んで身体を折った。

「痛……ッ、ぐっ」

 城の医局から処方してもらった痛み止めも、こういった突発的な強い痛みには対応しきれないのかもしれない。リウはゆっくりと身を起こし、慎重に息を吐いた。

 ズキズキと痛む胸を押さえる指先も、勝手に細かく震えている。

 歩く脚は重く、踏ん張りがきかない。ともすれば傾きそうになる身体を、リウは意識して必死に水平を保った。

 だがそれも歩いて行くうちに次第に息が上がり、肺が苦しくなる。近くの木陰に寄りかかり、たまらず滑り落ちるようにして草むらに座り込んだ。

 ほんの少し歩いただけだというのに、リウは肩で息する。

「はあ~。なるほどな」

 この身体は、今までの自分のものとは全く違うものへと変わってしまったのだ。いつも通りの生活をしてみただけで、身をもってその違いを痛感させられる。

 呪いを受け入れているようで、実際リウはまだどこか他人事だった。孤児だったため、自分の生死に頓着していないせいもあるかもしれない。

 だがいつまでも消えないこの痛みと指先の痣は、見る度にどうやっても気が沈む。

「呪いを受けたのは俺なんだからさ。ショアもちょっとは手加減してくれ」

 木陰で休むリウは苦笑いを浮かべながら、そんな文句を口にした。

 とはいえ本気で恨んでいるわけではない。

 自分が勝手に出しゃばっただけで、ショアから見たらよくも余計なことをしてくれたと、尾をビタンビタンと打ち付けて怒る可能性だってある。

 呼吸を整えながらぼんやりと空を見上げると、いつのまにか太陽は空のてっぺんまで上がっていた。思うように動かない身体を苦々しく思うリウの耳に、遠くから人の話し声が近づいて来た。

 意図せず耳をそばだてると、その声はリウよりも五年ほど先輩の竜騎士たちだった。

「あの――」

 立ち上がって声をかけようとした。しかしこちらに気付かない彼らの会話が聞こえてしまい、言いかけた途中でリウの身体は強ばった。

「――でさ、リウは王子を庇って副隊長叙任だろ? 一番下っ端の竜騎士が、呪いで出世って、ほら、なんかさあ」

 心臓がドクンと跳ねた。

 彼らは当然、すぐそばにリウがいることには気付いていない。知らないからこそ、こんな話をしているのだ。

 彼らは今回リウが呪いで伏せっている間にも、何度か見舞いに来てくれていた。

 当人がいない場所で愚痴を零すくらい、誰にでもある。

 聞いてはいけない、聞くべきではないと思うのに、身体が思うように動かないせいで近づく彼らの会話は全て聞こえてしまう。

「分かるけど口を慎めよ。結局その地位は、王家からの詫びなんだろ。じゃあお前はリウみたいに、バカ王子を庇って余命一年幾ばくで出世したいか?」

「そりゃ、無理だけどよお。けど」

「リウほどの正義感の強い竜騎士はいないんだ。最期まで、見守ってやろうぜ」

 出世が決まったリウを面白く思っていない団員もいるとは思っていたが、実際に自分の耳で陰口を拾えばやはり落ち込む。

 同じ宿舎で暮らす彼らは表面上はリウを気遣ってくれていた事実があるだけに、飾らない本音は気を重くした。

 とはいえ人の本音は一面だけではないことも、リウは分かっている。

 リウの体調を心配してくれていることも、リウの出世を疎ましく思うことも、どちらも同じ人間の中にある気持ちなのだろうと思う。

「俺の前で言わないだけ、優しいんだよな、多分」

 直接ぶつけるほど、彼らもリウを疎ましく思っているわけではないのだろう。ただ面白くないだけで、本気で妬ましいわけではないのだ。

 それでも聞いてしまったからには、どこか心に暗い影が落ちる。

 リウは今日何度目か分からないため息をついた。

「おや、貴方は彼らの陰口を許すんですか?」

 突然、真横から涼やかな声が聞こえて、リウは身体の痛みも忘れて反射的に飛び上がる。しかしすぐに鋭い痛みが身体を貫き、思わず心臓の辺りを押さえてその場に蹲った。

「えっ、だ、誰だ」

 リウの隣には、見知らぬ男がしゃがんでこちらを見ていた。

 黒いマントを頭まですっぽりと被り、いかにも不審な男だ。

 しかしマントの端には繊細な刺繍リボンがたっぷりと縫い付けられ、左右を繋ぐ胸元の紐にも金の飾りボタンが使われている。上等な質感の生地は、平民ではなさそうだ。

 手入れが行き届いた爪や艶やかな黒髪からも、賊の類いではないことは明らかだろう。

 その上、掛けた眼鏡では隠しきれないほど、男の顔立ちは息をのむほどに整っているのだ。男に使う形容詞としては相応しくないかもしれないが、リウは彼を綺麗だと思った。

(って、違う、そうじゃない!)

 リウは慌てて立ち上がろうとして、それから再び鈍い痛みに小さく呻く。

「おっと、大丈夫ですか」

 よろめくリウの身体を、男は難なく支えた。一見細身に見える男だが、竜騎士であるリウの身体を易々と受け止められる程度には、意外と鍛えているのかもしれない。

「こんにちは、リウ・パッフ。私はラーゴ・ラディーン、魔法使いです」

「はあ……? こんにちは」

 目元を細めて品良く笑う男――ラーゴ・ラディーンだが、やはりリウには見覚えがない。

 初対面だとは思うものの、それにしては微妙にリウに対する距離の近さが気になった。

 だがこんな目立つ男は忘れないだろうし、魔法使いに知り合いはいない。

 唯一知っている魔法使いと言えば、先日謝罪に来た女魔法使いくらいだ。

 その時のことを思いだし、僅かに苦い気持ちになる。それは相手への感情ではなく、女性の謝罪を受け入れられなかった自分の器の小ささに対してだったが。

「お前は誰だ、という顔をしていますね。気軽にラーゴと呼んでください」

「はあ」

 ラーゴという名は、言ってはなんだがよくある名前だ。城内で働く人間でも同じ名を二人は知っている。昔に世話をした子供も似た名前だった気がするが、それならば知り合いだと告げてくるだろうし、間違いなく当時の話を持ってくるだろう。

 それに平民には眼鏡など高級で手が出ない。ラーゴという名前で眼鏡の男に、リウはやはり覚えがなかった。

 疑問符を浮かべるリウに、ラーゴはズイと顔を寄せる。

 近くで見ても陶器のように滑らかな肌と、美しい顔立ちだ。

 日に焼けているリウと違って、随分色が白くキメが整っている。

 それに声もいい。

 凜とした透明感のある声質は高すぎず低すぎず、スッと耳に入っていく。改めてこんな男に知り合いはいないと感じていると、同じようにリウを観察していたラーゴがぽつりと零す。

「噂通り、リウは本当に綺麗な人ですね」

「なんだそれは。お前が言うと嫌みに聞こえるぞ」

 リウは苦笑しながら、一体どんな噂だと内心げんなりする。

 平民上がりが多い竜騎士をよく思っていない人間は、貴族階級に多いからだ。

 その上ラーゴのような美貌の持ち主に褒められても、明らかにお世辞だと分かる。

 ラーゴはその長い指で、リウの顎をツイと持ち上げる。

 至近距離でジッと見つめてくるその紫の瞳は不躾なはずなのに、リウは目が離せない。

「潔癖な竜騎士。数多の男女の誘いは全て断り、ただ竜だけに親愛を注ぐリウ・パッフ。それから……王子を庇った悲劇の竜騎士、ですかね」

 自分を指し示しているのだろうその呼び名に、いよいよリウは眉をひそめた。

 それからラーゴの手を軽くはたき、慎重に身体を起こす。

「高貴な魔法使い様は、わざわざ哀れな竜騎士に喧嘩でも売りに来たのか?」

 そう、魔法使いは平民だとしても地位が高く外を出歩くことは少ない。

 竜もそうだが、魔法使い自体が国内でも希有な存在だからだ。

 ヒトならざる力を行使する魔法使いたちは、主に貴族たちに囲われている。

 あの女魔法使いがそうであったように、潤沢な賃金と身の保証を与えられることと引き換えに、魔法を使って雇用主に利益を与えることができる。

 孤児だろうが万が一魔法が使えれば、一生食べるに困らないと言われるほどだ。

 しかし魔法使いたる資質を持っている者は極端に少ない。

 体内に魔力を有する人間はこの百年で三分の一ほどに減り、現在国内の魔法使いは二百人いるかいないかだと言われている。

 そんな貴重な魔法使いとなれば、他家に引き抜かれることを恐れる雇用主はあまり表に出さないという面もあった。

 それなのにこの魔法使いを自称する男は、たった一人で竜騎士団の敷地内をうろついている。いかに魔法が使えようとも、不用心だ。

「まあ、いい。じゃあな」

 ラーゴの返事を待つことなく、リウはマントを翻し竜舎に向かって歩を進めた。

 こんな男に構っている暇はない。

 力が尽きる前に、さっさと相棒であるガジャラに会いにいかなくては。

 必死に歩くラーゴだが、その後ろにはのんびりとした様子のラーゴが着いてきている。

「~~一体、なんの用事だよっ」

 バッと振り返るリウだったが、ラーゴは気にした様子もなく笑顔を崩さない。

「貴方は元々そんなに怒りっぽいのですか? 失礼な発言があったかもしれませんが、それにしても随分な態度ですね」

「それは……」

 指摘され、リウは確かにそうだと気がついた。

 確かにラーゴの言葉はリウの触れてほしくなかった部分を踏み抜いた。しかしリウの苛立ちの原因は、ラーゴのせいだけではない。

 目が覚めて一週間、痛みばかりの日々だった。

 強い鎮痛剤はよく効きくものの、痛みをゼロにしてくれるわけでもない。その上副作用による吐き気が常にあり、動作によっては唐突な痛みに襲われることもあった。

 周囲からは哀れみの視線を向けられ、腫れ物のように扱われ、厄介者だと言われて――つまり直接リウに「悲劇の竜騎士」などと言ったのはラーゴだが、こうやって爆発するまでに積もり積もった感情があったのだ。

 先ほどの怒りは、ラーゴが全ての理由ではない。

 積もり積もったリウの不満を、ラーゴ一人に押し付けていいものではなかった。

「すまない。それは……俺が悪かった」

 リウはラーゴに向き直ると、改めて深々と頭を下げた。

「僕の方こそ、すみません。ちょっと意地悪しちゃいましたね」

 先ほどよりも柔らかくなった声が落ちる。

 見知らぬ相手とはいえ、気を悪くさせたままにならずよかった。

 内心胸を撫で下ろすと同時に、起こそうとした上半身を支えきれずにリウの身体は傾いた。

「わ……! す、すまない!」

 細いと思っていた腕は案外に逞しく、リウの身体を易々と支えた。先ほどもそうだったが、見た目よりも随分鍛えている。魔法使いは運動とは無縁だと思っていただけに意外だった。

「いえいえ、僕は役得ですのでお気になさらず」

「そ、そうか?」

 笑みを深めるラーゴの言葉の意味は分からないものの、ひとまず体勢を整えようとその腕の中から出ようとする。

 だが、ラーゴの腕はピクリとも動かない。

「……あの?」

「どちらまで行かれるんですか? この方向でしたら、竜舎です?」

「うん、まあそうだけど――ッ!?」

 言うが早いか、案外人の話を聞かない男はリウの身体を軽々と抱き抱えた。直接の戦闘はないとはいえ、竜騎士として鍛えた身体は筋肉質で重いはずだ。

「ちょ、おいお前! 危ないだろう!」 

 魔法使いの細腕で、こんなに軽々と持ち上げられるものだろうか。いつ落とされるのか分からない。不安から思わずその首にしがみつくと、ふわりと甘い匂いがした。

「浮遊の魔法をかけているので大丈夫です。まだ体調が万全じゃなさそうですし、このまま竜舎までお連れしましょう」

「いやお前それは……。まあ、いいか。では頼む」

 離すつもりはないと如実に伝えてくる腕から抜け出すには、それはまた相応の気力と体力が必要に見えた。それならばもう、お言葉に甘えてしまおう。

 お姫様抱っこと呼ばれる体勢には多少の恥ずかしさはある。

 しかし突き刺すような痛みは軽減できるのは確かだ。手段さえ気にしなければ楽をさせてもらっているわけで、もはやリウは思考を手放し流れに身を任せることにした。

 出歩いたせいか身体の痛みはズクズクと強まり、考える事を諦めたともいう。

 投げやりなリウ許可を得て、ラーゴはパアッと表情を明るくした。

「はい、お任せください。不審者が出たら僕が蹴散らします」

 誰よりもお前が不審者なのだがな。

 リウは思ったものの、さすがに口には出さなかった。

 男は機嫌よさそうに目的地に向けてスタスタと歩いた。

 今まではそう遠いと思っていなかった道のりだが、こうして移動してみると今のリウの体調では遠距離だったかもしれない。

 このよく分からない申し出も、渡りに船と言えなくもない。

 木陰を抜け、砂埃の舞う演習場に入ると、突き刺さるような日差しが注がれる。手を翳そうとするよりも先に、ラーゴの片手がリウの顔の上で影を作った。

 紳士的すぎる対応に、リウはどうにも落ち着かなくなる。

 リウも屈強とは言いづらいが、一般的な成人男性よりも鍛えている。身長はラーゴとあまりかわりないかもしれないが百八十三センチはあるし、竜に乗るための鍛錬は常に欠かしていなかった。

 顔立ちもとりたてて平凡な方だが、女性と間違われることは人生で一度もないのだ。

 まるで女性にされるようにさりげない気遣いを受けるのは初めてで、どうにも据わりが悪い。リウの体調が悪い原因を知っている様子だが、ラーゴのそれは病人を慮るものともまた違って見える。

「……」

 すぐ隣にある男の顔は柔和な笑みを湛えたまま、ただまっすぐに前を見つめている。

 横から見る紫色の瞳は長い睫が影を落とす。この体躯と顔立ち、そして多少強引なところはあるが紳士的な気遣いは、女性にモテるだろうなとリウは思った。

 しかし突然現れたこのラーゴという魔法使いは、一体何者なのか。

 片手で軽々とリウを抱えて歩いているのだから、浮遊の魔法は事実なのだろう。

 そういえば何を目的にリウの前に現れたのか。迂闊にもリウはそれを確認していなかったと気付いた。

「あのさ――」

 そう口にしかけた瞬間、周囲に大きな音が響いた。

「グルルルア~!」

「ガジャラ……ッ」

 それはリウの相棒である、ガジャラの声だ。もう目と鼻の先にある竜舎を前に、思わずリウは身を乗り出して体勢を崩しかけ、再びラーゴの腕に抱き留められる。

「す、すまない! つい」

 久しぶりに聞こえる懐かしい声に、逸る気持ちが抑えられなかった。

 まるで子供のようだと反省していると、リウを抱いたままのラーゴから小さく笑う気配があった。

「早く会いたいんでしょう? 少し、走りますよ」

 言いきるより先に、ラーゴの歩みがグンと加速した。

 周囲の景色が普段の数倍の早さで流れていく。

「これも、ま、魔法かっ!?」

「これは魔術ですね。靴の裏に仕込んでいる魔方陣に魔力を加えることで発動します」

 リウを抱えたままものすごい早さで駆け抜けるラーゴだが、その呼吸には一切の乱れがない。便利なものだと関心する反面、ふと疑問も湧いた。

「呪文を使うのが魔法、使わないのが魔術なのか?」

「それも違いますね。呪文の有無は魔法使いの熟練度に左右されると言われています。魔力を練り上げるための座標なので、もう僕には不要なんです」

「つまり呪文がいらないほどの練度だということか……」

「でも魔術は魔法より安定しているので、呪文不要なものが多いですよ」

「う、うーん? そうなのか?」

 わずかに魔法の疑問が解消されたような気になったものの、更に追加された情報にリウは混乱する。

 要は魔法と魔術の違いは魔方陣使用の有無だけということだろうか。魔法使いが使うものは全部魔法でいいのではないだろうかと、リウの頭に疑問符が湧く。

 だが魔法使いは常人には理解できない特別な能力を持った者であり、ラーゴは凄い人物だということは理解できた。

 少なくとも竜に乗ることしかできないリウよりも、よっぽど優れている。

 あっという間に竜舎に到着すると、ようやくリウはその腕から降ろして貰えた。

 竜の身体に合わせた竜舎の扉は相応に大きく、見上げるほどだ。

 リウよりも先にラーゴが扉に近寄る。代わりに開けてくれるということだ。

 好意に甘え、リウは今か今かと扉が開くのを待った。ようやくガジャラに会える。

 閂を外され扉が開くと、リウは待ちきれずその隙間から中へと踏み出した。

「ガジャラ、――ッ」

 だが次の瞬間、リウはその場に蹲った。

「うあ、あっ! う、うっ!」

 四肢をもぎとられたほうがマシだと思うような激しい痛みが、リウを襲う。指先が凍えるように冷たくなって、だが駆け抜けていく痛みは雷のように熱い。

 人目がなければのたうちまわっていたかもしれない。

 呪いを受けて目覚めてから一番きつい苦しみに、リウは地面に手をつきなんとか身体を支えたが、その腕も勝手にブルブルと震えた。

「リウ、痛みが? やはり呪いは竜が持つ魔力を変化させたものなんでしょうか。竜に近寄るだけで呪いが反応すると仮定した場合――」

「わか、んな……」

 ラーゴは蹲るリウの隣にしゃがみ込み、大きな手でリウの身体に触れた。それは邪なものというよりは、医師が患部を確認するような手つきである。

 だがリウにはラーゴの言葉を咀嚼する余裕はない。震える身体で浅く息を吐き、なんとか痛みを散らそうとすることに必死だ。

 小さく呼吸するたびに肺が軋み身体が跳ね上がる。その度に痛みが増すせいで目の前が歪み何も見えない。

「はっ、は、う……あ」

「落ち着いてください、リウ。いいですか、僕の手を感じて。ゆっくり、そう、ゆっくり息をして」

 耳に滑り込む美声は、痛みに呻くリウすら自然と従う不思議な力があった。

 言われるがままに息を吸い、背中に当てられたラーゴの手に集中する。時々痛みにむせるものの、ゆっくりと背中を撫でる大きな手の感触は不思議と心を落ち着かせてくれた。

 どうにか呼吸を繰り返していくうちと、徐々に痛みが薄れていく気がする。

 時間にして十分ほど経ったころ、ようやく痛みの波が収まった。

「リウ、一旦ここを出ましょう」

「あ、ああ……」

 差し出された手に捕まって、足を踏み入れたばかりの竜舎を出た。

 結局ガジャラの顔すら見ることができなかった。

 しかし先ほどの強烈な痛みは、リウがかつて経験したことがないほどのものだった。このまま痛みに飲み込まれ、死んでしまうのではないかという強い恐怖に襲われたほどだ。

 自分が死ぬことなど怖くない。

 特別な相手がガジャラだけだったリウは、かつてそう思っていたはずだった。

 だが自分の死が、苦しみ抜いた先にあると想像しただけで身体が震えた。

「竜の呪いは人間の体内で変質し、痛みを与えると同時に同種である竜の魔力に反発するようになったのかもしれません。これはまだ推測ですが、ならば竜に近づかなければ小康状態を保てるとも言い換えられますね」

 竜に近づかなければいい?

 あんまりな言葉に、リウはラーゴのマントを強く掴んだ。

「なあ待ってくれ! じゃあ俺はこの呪いがある限りガジャラに……竜に近づけないってことなのか!」

 違うと言ってほしい。

 そんな気持ちで必死に縋り付くリウだったが、ラーゴの返答は無情だった。

「むしろ今のままなら近づかないほうがいいですね。痛みに耐えられるなら別ですが、先ほどの様子では難しいのではないでしょうか」

「そん、な」

 膝から崩れ落ちそうになるリウの身体を、ラーゴは難なく片腕で支える。

 先ほどの苦しみを受けて、もはや今のリウは自分の足で立つことすら難しい。よく効く鎮痛剤を服用しても完全には散らせなかった痛みが、竜舎に入っただけで何十倍にも膨れ上がったのだ。

 痛みを堪えたまま竜に騎乗し大空を舞うなんて芸当は、普通に考えれば不可能だという結論になってしまう。

 それはつまりリウの竜騎士としての任期終了を意味し、そのパートナーであるガジャラにとっては大空を羽ばたける機会の終了を意味する。

 竜と竜騎士は一蓮托生だ。

 竜にも竜騎士にも、どちらかを失った結果は必ず訪れるものだ。

 しかし今回は竜騎士であるリウの軽率な行動のせいで、来るべき時期よりも早い段階でガジャラに不自由を強いることになる。

 もう二度と、ガジャラの力強い翼が大空で羽ばたくことはない。

「俺が……っ、俺のせいで……!」

 突き刺さる胸の痛みは、呪いのせいだけではない。

 王子の代わりに呪いを引き受けたことを、リウはさほど後悔してはいなかった。

 だがガジャラの今後を考えると、リウの胸は引き裂かれそうに苦しい。

 静かにリウを見つめていたラーゴだったが、突然「それなら」と脈絡のない提案をした。

「呪いは解くので、僕と結婚しませんか」

 誰が、誰と。

 まさか自分とラーゴが? 

 あまりに突拍子もない話すぎて、リウは一瞬痛みを忘れて凝視した。

 だがすぐさま理解し、苛立ちを隠すことなくラーゴを睨み付けた。

「俺を揶揄って面白いか」

「考えてみてください。竜騎士の貴方は今、呪いのせいで竜に近づけない。つまり貴方の相棒である竜は二度と表舞台に立つことはないでしょう。反竜派の勢力が増している今、運が悪ければ殺処分です」

 淡々と話すラーゴの言葉に、リウは奥歯を噛みしめ強く拳を握った。刺すような痛みで身体が痺れるが、そうでもしなければラーゴに殴りかかりかねない。

 竜の殺処分。

 それは王妃の実家を中心とした反竜派が、声高に提案していることだ。

「この国を守る竜とはいえ、維持費がかさむ。今までは竜騎士を喪った竜とはいえ、交配用に使うか余生をゆったりと過ごして貰っていたと聞きます。そうですよね」

 リウはそれに答えない。

 内容自体は正しかったが、口を開けば再びラーゴに八つ当たりをしかねなかったからだ。

 沈黙を肯定と捕らえたのか、ラーゴは再び言葉を続ける。

「竜はあらゆる臓器が薬となると言われています。僕たち魔法使いの、魔術の材料にもなる。殺処分したほうが実入りがいいと考えている一派は、少なくありませんからね」

「お前……っ」

 カッとなって胸ぐらに掴みかかるが、ラーゴはリウの身体を遠ざけるどころか腰を抱くようにして引き寄せた。

 殆ど変わらない身長差だが、数センチだけラーゴが高いようだ。間近でかち合った紫の瞳は、思いもよらず真剣な色を帯びている。

「落ち着いてください、リウ。だから僕と結婚しませんかと言っているんです」

「……どういうことだ?」

 眼鏡のレンズが光を反射する。

「先ほど竜舎の中で苦しむ貴方の背中から、痛みの原因を取り除きました。僕の手を通って痛みが抜ける感覚はありましたか?」

「そういえば……」

 背中を擦られるだけで楽になったのは、気の持ちようではなくラーゴの魔法によるものだったのか。

 心当たりのあるリウの姿を見て、ラーゴは小さく頷く。

「貴方の体内にある呪い、つまり竜の魔力を僕が吸い出したのです。竜の側にいても楽になったでしょう? 薬と違って痛みを誤魔化すのではなく、原因を排除したんです」

「なる、ほど?」

 説明を受けても、リウは仕組みや原理を完全に理解できたわけではなかった。とにかくラーゴがリウの痛みを取り除いてくれたことは理解できる。

 ラーゴの解説は続く。

「僕の手助けも一時的なものです。貴方が受けた呪いは人間の魔力とは違い、異質で複雑だ。竜の魔力が増幅するタイミングに合わせて魔力を抜けば、痛みはマシになります。しかし竜の呪いに前例はなく解呪自体が難しい。王宮の魔法使いも匙を投げたのではありませんか?」

「ああ、その通りだ」

「ですから、僕と結婚しましょうと提案しているのです。一緒に暮らすことで、貴方の体内から溢れる竜の魔力をその都度吸い取り、痛みを抑えることができます」

 なるほどそういう理由で結婚しようと言いだしたのか。リウはようやく納得した。

 結婚などと言われたせいでなにをふざけたことをと思ったものだが、つまり共に暮らそうということだ。

 どうして初対面のラーゴがそこまでしてくれるのかは分からないが、呪いが解けない現状、リウにとってもガジャラにとってもそれが最善に思えた。

「理屈は、分かった。だが結婚という表現は適切ではないな。つまりお前と同居かしたらいいんだろう?」

「いえ、結婚です。もしくは婚約が必須となります」

 強く言い切るラーゴに、リウは首を傾げる。

「一緒に生活をする上で、僕が竜騎士の宿舎に入るわけにはいかないでしょう? 僕の借りている家は同居不可、結婚ないし婚約した場合に限り同居可能の物件です」

「そ、それなら新しく物件を借りたらどうだ? 俺だって竜騎士だしそれなりに」

 そう言いかけて、リウははたと気付いた。

 高級取りである竜騎士だが、常に竜に貢いできたリウにそれなりの蓄えなどないのだ。

 雀の涙程度の金はあるが、二人暮らしの物件を借りることはできても維持するのは難しいかもしれない。

 自分の懐事情を情けなく思いながら、口ごもるリウにラーゴは指を五本立てた。

「参考までに、僕が借りている物件は一年契約で一ヶ月あたりの家賃だとこれくらいです。もちろんリウの費用負担は必要ありません」

「う」

 気持ちがぐらりと傾く。いや、そもそも拒否する材料などないのだ。

 痛みも緩和され、竜騎士としてガジャラと過ごすことができる。

 リウにとっては利点ばかりだ。

 ただ何もかもこの男に頼ってしまうとなると、竜騎士として残された僅かなプライドだけが邪魔をする。

「家具が揃っている空き部屋があるので、すぐにでも生活できますよ。日常的に痛みがなくなれば、リウもすぐに職場復帰できるのではないですか? その間に、僕は貴方の呪いを解く手助けもしましょう」

 そう提案されてしまえばすぐにでも頷きたくなる。

 しかしリウにとって、あまりに話が上手すぎるのだ。

 詐欺か、それともなにか別の思惑があるのかと勘ぐってしまう。

「そうなると俺ばかりが得をしているが、それはお前に利点があるのか?」

「ありますよ」

 うっすらと微笑むリウが、抱いたままのリウの腰を強く引き寄せる。

 近すぎると押し返そうとするが、今度は肩まで抱き込まれた。

「だって僕はリウを愛していますからね。一目惚れです。責任を取ってください」

「は?」

 女性であればうっとりとするような微笑みで、ラーゴはリウに甘く囁く。

 リウはぽかんと口を開ける。

 この完璧な男に一目惚れされるような要素はどこにもないのだが――そう考えていると、穴が開くほどに見つめていたラーゴの顔がおもむろに近づいた。

 近づきすぎではないかと無意識に避けようとするリウの後頭部に、大きな手のひらがグッと回った。

「ちょ……ッ、ん、ん!」

 そのまま柔らかいなにかが唇に触れ、開けたままの歯列をくぐってぬるりとしたものが滑り込んだ。

「んーッ、んむッ……ふ、うン……ッ」

 口内を弄られて、リウの喉から変な息が漏れる。

「はあっ、はっ、な、なん、なん……ッ!?」

 ようやく唇が離れると、リウは自分の口元を擦った。

 ラーゴから仕掛けられたものは、紛れもないキスだ。それも、リウが経験したことがないほど濃厚な、キス。

「どうです。身体が軽くなっていませんか」

「……言われれば……本当だ」

 リウは手を開いたり握りしめたり、膝を使って高く飛び跳ねてみた。鎮痛剤を飲もうと完全には取れなかった痛みが、今はまるで呪いなどないかのようにスッキリとなくなった。

 身体をねじり、まるで以前の自分に戻ったかのように身体が動く。

「推測通り、体内から溢れる竜の魔力を吸い出すなら、外側よりも内側――粘膜経由が有効でしょう。貴方は痛みが緩和される、僕は愛する貴方と一緒に暮らせてキスができる。どうです、これ以上のメリットはないでしょう?」

「そうきたかあ」

 あまりの内容に、リウの頬はヒクついた。

 だが所詮キス。結局キスだ。

 その程度で竜騎士生命が伸びるのであれば、首を縦に振る以外ないだろう。

「まずは婚約からどうですか」

「……一緒に暮らすため、だからな」

 相手の好意を利用しているようで気が引けるが、それでもいいのだと提示されている。


 こうしてリウは初めて会ったばかりの男を相手に、打算しかない結婚を誓うこととなったのだ。

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