第2話:月下の邂逅

 あの日以来、一条蓮の視線は、無意識に影山雫の姿を探すようになっていた。

 返そうにも、次の日から彼女は学校を休んでいる。風邪でもひいたのだろうか。雨の中を走っていったのだから、当然かもしれない。

 教室の窓際、ぽっかりと空いた席を見つめながら、蓮は小さくため息をついた。


「あんた、最近ぼーっとしてない? もしかして、例の影山さんのこと考えてるわけ?」


 放課後のトレーニングを終え、並んで歩く帰り道。隣のアカリが、ニヤニヤと意地悪く笑いながら肘で突いてくる。


「……別に。ただ、傘を返さないと気味が悪いだけだ」

「ふーん? ま、あんなボロボロの傘、捨てちゃえばいいのに」

「そういう問題じゃないだろ」


 蓮は少し強い口調で返す。アカリは一瞬きょとんとした後、「あんたが本気で怒るなんて、珍しいじゃない」と興味深そうに目を細めた。


 その時だった。

 肌を粟立させるような、凶悪なプレッシャー。

 空気が鉛のように重くなり、生命としての本能がけたたましく警鐘を鳴らす。二人が同時に足を止め、視線を交わした。


「……嘘でしょ、こんな街中で」


 アカリの声が震える。路地の暗がりから、ぬるり、と現れたのは一体の怪物。

 牛の頭蓋骨を持つ巨大な人型の体に、蛇のようにうねる六本の腕。その手に握られているのは、錆びついた巨大な肉切り包丁。DAMAのデータベースで何度も見た姿。


「B級災害級……『ミノタウロス・ヘカトンケイル』……ッ!」


 なぜ、ダンジョンでもない場所に、こんな大物が。小規模なダンジョンブレイクの前兆か。だが、今は考える時間などない。


「アカリ、民間人の避難誘導を! 俺が時間を稼ぐ!」

「馬鹿言わないで! あんた一人じゃ無理よ!」


 叫びながらも、二人は即座に戦闘態勢に入る。蓮は腰のホルスターから魔力を帯びたガンブレードを抜き、アカリは指先から炎の槍を生み出す。

 だが、格が違いすぎた。


 ミノタウロスの咆哮が、ビル街を揺るがす。六本の腕から繰り出される斬撃は、嵐のように二人を襲った。アスファルトが紙のように裂け、街灯がなぎ倒される。防戦一方。蓮の銃撃は分厚い皮膚に弾かれ、アカリの炎は巨体にかき消される。


「くそ……ッ!」


 一瞬の隙を突かれ、蓮の体が吹き飛ばされる。壁に叩きつけられ、肺から空気が絞り出された。霞む視界の中で、アカリが悲鳴を上げるのが聞こえる。


 もう、だめか。

 死を覚悟した、その瞬間──。


 ふわり、と夜風に桜の香りが混じった。


 まるで、最初からそこにいたかのように。ミノタウロスの背後、月光を背負って立つ、一人の少女の影。

 漆黒の短い羽織。星空を裏地に隠したプリーツスカート。足元は、音を殺す足袋型のブーツ。

 月光に照らされたその横顔は、驚くほど整っていた。

 いつも前髪とメガネで隠されている、あの地味なクラスメイトの面影が、一瞬だけ脳裏をよぎる。


 ──いや、まさか。そんなはずがない。彼女が、こんな場所にいるわけがない。


 少女──謎の剣士は、腰に差した刀の柄に、そっと指をかける。

 彼女が纏う雰囲気は、もはや「地味なクラスメイト」のそれではない。それは、幾多の死線を越えてきた者だけが放つ、研ぎ澄まされた鋼のような闘気。


「壱ノ構え──三日月」


 呟きは、誰の耳にも届かないほど小さい。

 世界が、スローモーションになる。

 少女の姿が、ふっと消えた。

 違う。あまりの速さに、蓮の動体視力が追いついていないだけだ。

 次の瞬間、彼女はミノタウロスの背後に再び現れていた。いつ抜いたのか、いつ斬ったのか、誰にも分からない。ただ、銀色の軌跡だけが、夜の闇に三日月の形を描いていた。


 時が、再び動き出す。

 B級災害級モンスターの巨体が、何の抵抗もできぬまま、頭頂から股下まで、綺麗に真っ二つに分かれて崩れ落ちた。

 圧倒的な、一撃。

 絶望的なまでの、力の差。


 少女は、崩れ落ちる巨獣には目もくれず、静かに刀の血を振り払う。そして、祈るように、ゆっくりと刀を鞘へと納めた。その一連の流れるような所作は、まるで一つの神聖な儀式のようだった。


 蓮は、アカリは、声も出せずに立ち尽くす。

 ただ、月光の下に立つその少女の姿から、目が離せなかった。


 なぜだろう。初めて見るはずの剣士。なのに、あの桜の香りが、雨に濡れて走り去っていった小さな背中が、脳裏に焼き付いて離れない。


 目の前で世界有数の災厄を一撃で屠った最強の剣士と、あの地味なクラスメイトの姿が、ありえないと分かっていながら、何度も重なって見えた。





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