しろいふく

白美希結

第一章:発表会


 『蓮くんのお家はびんぼうなの?』


 小学三年生の頃に聞いたあの言葉が忘れられない。楽しみにしていた参観会が発表会に変わったからだ。

 タイトル、『筒井蓮くんのお家は貧乏です』

 教室全体が、まさにそんな雰囲気に包まれた。クラスメイトの安藤佳純は、自分の発した言葉の意味を理解していないようだった。まるで『この漢字はなんて読みますか?』と先生に質問する時と変わらない問い方をしたから。

 大人たちは、チラチラと母を横目で見ながらザワザワと小さな音を立てていた。母は顔色一つ変えずに膝を曲げ、長い髪を耳にかけながら答えた。

 「さぁどうでしょう。でも、私は蓮を愛しているわ。だから、心は貧乏ってことはないかな。あなたはどうなのかな?」

 西陽に照らされた母は太陽の光が重なり輝いて見えた。ザワザワした耳障りな音は『パンパン』と手を叩く音で鳴り止んだ。

 「さぁ、授業を始めますよ。安藤さん、席についてください」

 母の返しは先生も太刀打ちできなかったのだろう。何事もなかったように授業参観へと戻った。

 

 ……あれから僕の貧乏説は悪い方向へと進んでいったのだ。


 「蓮くん、私の給食あげるね。だってかわいそうだもん。お家でご飯食べられないんでしょ」

 「そんなことない。ご飯食べてる」

「びんぼうで嘘つきなんだね。私のママが言ってたもん。『蓮くんはかわいそうな子だから優しくしてあげなさい』って」

 「私のママも言ってた」

 佳純と仲のいい友梨奈まで加わってきた。

 「ママたちみんな言ってるよ。『蓮くんのママはいつも汚れた服を着てる』そう言ってたもん」

 「もうやめてよ……」

 声まで震えてしまった。

 「せっかく優しくしてあげたのに嫌な感じ。友梨奈、席戻ろう」

 発表会の時の大人たちと同じような視線を僕に向け、二人は戻って行った。

 これを機に僕は完全に女子たちから嫌われた。

 ……ただ、救いはあった。それは、友情関係は変わらなかったから。

 

 味を感じなくなってしまった給食を無理矢理口の奥へ押し込んだ時、大翔が肩に腕を回してきた。

 「女子の言ってることなんて気にするなよ。うちの母さんなんてさ、毎日汚れたエプロンしてるぜ」

「うん。ありがとう。……言い返せない僕も悪いんだけど」

「変なこと言ってるやつが悪いだろ。それに、びんぼうってなんだよ。女子ってよくわかんねぇよな。早く、皿片付けてグランド行こうぜ」

 僕の左肩をポンと叩き、自分の皿をガチャガチャと片付け始めた。

 

 軽くなったプラスチックの皿を片付けながら、母のことを思った。

 ……『汚れた服を着ている』

 

 今まで考えたことすらない。小学生の男子が気にするはずもない母の服。

 大翔が言っていた『汚れたエプロン』は悪いのか。

 母が着ていた『しろい汚れた服』も悪いのか。

 幼い僕の想像力は給食皿と同じように軽かったのだろう。これ以上考えることもなく、真っ白な体操着に着替え教室を飛び出した。

 

 昼休みのサッカー中、大翔たちと一緒に汗をかいたことで一体感を得られた。僕だってみんなと同じなんだと……。

 夢中になり過ぎたせいで五時間目の体育が始まる前には体操着が茶色くなってしまったが、汚れた体操着に悪を感じることはなかった。

 視線を戻しグラウンドの端に『しろいふく』ではない子を見つけた。穴が開きそうなほど見入ってみると僕のことを『びんぼう』と呼ぶ人たちだった。

 あの二人は最近、見学してばかりいる。体操着を忘れたと毎回同じ理由で。

 

 教室に戻る途中、靴箱で大翔と佳純が揉めていた。

「体操着、忘れすぎだろ」

「大翔くんに関係ない」

「見学するなら一人でしろよ」

「しょうがないでしょ。友梨奈だって忘れちゃってるんだから」

 次第にヒートアップし、二人の声は風に乗り、職員室まで響いた。廊下から先生の足音がする。

「俺、見たんだからな。友梨奈ちゃんの体操着を二人で隠してるところ」

「そんなの嘘……。大翔くんって蓮くんと同じで嘘つきね」

「嘘つきは安藤だろ!」

 パタパタと音が近くなり先生の足音はすぐそこまで来ていた。

「そんな大声出して何事ですか」

「安藤さんが友梨奈さんを巻き込んでいます」

「一体どういう事ですか」

「先生、大丈夫です」

 事実を言おうとしない安藤さんを遮り、僕は大翔を助けようと近寄った。しかし、蛇を睨む蛙のような安藤さんの視線が僕の動きを止めた。

「先生が心配するような事はありません。大翔くんの誤解が溶けたので。ね、大翔くん」

「え……。あ、はい」

 大翔も同じような視線を向けられていたのだろう。小学生の時の僕らは、何故か女子に強く言われると空気を抜かれたように小さくなってしまうのだった。

「自分たちで解決出来ることが一番です。もし、私の力が必要なときは言ってくださいね」

 先生の眉間の皺が平らになったのを僕は見逃さなかった。

「さあ、帰りの支度をしましょう」

 その言葉に促され、僕たちは肩を並べ階段を登っていた。

 途中、大翔は後ろから安藤さんに近づき小声で何かを言っている。

 蛇のように鋭かった目は、耳から針でも刺されたかのように一瞬にして光を失った……。

 そんな姿を見た僕は、ウシガエルのように自分が強くなったと錯覚し、いい気味だと思った。

 

 家に帰ると母は、大量のポケットティッシュを机の上に広げていた。蛍光色に近い明るさで電話番号が書かれた紙を一枚一枚丁寧に、ティッシュのポケットに入れながら僕に笑顔を向けている。

「蓮くん、おかえりなさい」

 幼かった僕は知らないことが多すぎた。今振り返ってみると母は内職をするほど家計は苦しかったのかもしれない。

「お母さん、今日ね体育が始まる前に大翔とサッカーしたの。そしたらさ、たくさん転んで体操着が真っ茶色になっちゃった」

 肩をすくめながら体操着を取り出し、クシャクシャの笑顔を見せた。

 この時も、母は『しろいふく』を着ていた。

「あら、よかったわ。子どもは全力で遊ぶことが一番なの。またお洗濯して白くしておくわね」

 ポケットティッシュをかき集めガサガサとビニール袋に押し込んだ。

 母はそっと体操着を受け取り『しろいふく』に茶色の汚れが付いてしまった。

 「あ、私も蓮くんとサッカーしたみたいになったわね」

 茶色い部分をつまみながら柔らかな表情をした。

 「汚れちゃったね……」

 「お洗濯すれば、大丈夫!お腹空いたでしょ?さぁ、お夕飯の支度をしましょう」

 僕の髪をクシャクシャとし、優しく頭を包み込んでくれた。

 フワリとシャボン玉のような脆く優しい匂いが僕の心をジュワっと温めた。

 

 あの時の母の匂いを絶対に忘れない。いや、忘れてはいけないのだ。なぜなら、僕の心が本当に『びんぼう』になってしまうから。

 

 

 ……なぜ、母は殺されなければならなかったのか。

 ……誰が母の『しろいふく』を赤色に汚したのか。

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