後章 赤い十字と白の塔 3
太陽が水平線を脱出し、空が朝日に征服されきると、私は小屋から出された。自分の小屋に寄ってサチエを寝かしつけていたジーナが、朝礼の時間だと言って入り口の布をくぐる。
化け物、もとい村長は、ほとんど骨同然の手で私の背中を優しく二度叩いた。所々傷つき汚れてい不純物がこびりついた顔は、積年の苦労を背負う私の保存車と重なる。まるでじかんがそこに、刻まれているように――。
私は彼を、人間として考えるようになっていた。
それ以前に私の中で、人間の定義が揺らいでいたことに違いはなかった。
化け物と人間を隔てるものがなんなのか、その答えは、これからこの村で過ごすじかんに求めていく。
私の中でいつか、化け物は人になるのだろうか。
――恐ろしい。
私は気付いた。恐ろしいのは、同化していくことではない。
すでに、早くも、残りの四十年を、ここで過ごすという想定をしている自分に、悪寒が走った。
そんなことはごめんだ。
私は絶対に都市へと戻る。
朝礼は毎日繰り返される。ホームに来て、まだ一度も時計を見ていないので、じかんが確認できない。ジーナに訊いても、尾根が背負う太陽を指差す他に、何も言わない。
しかし数時間もこの場所に身を置けば、都市では陶芸所の床くらいでしか見たことのなかった〈固められた土でできた道〉を踏むことにも慣れてくる。
いくつもの小屋が並立する道を進むと、大きなひらけた場所に出た。低い柵に覆われた敷地の中は芝生に覆われていて、敷地の隅にはたくさんの木製の長椅子が置かれていた。ところどころには、知らない木が植えられている。真ん中に色の禿げた鉄の櫓があり、その他には基本的に何もない。
村長が櫓に登り始めた。折り返しの階段は足をかけるたび軋む。
村長は両手で手すりを持ち、下半身を引っ張り上げるようにしてゆっくりと一歩ずつ登る。鉄を叩く足音に呼応するように、小屋の扉がぽつりぽつりと開いていく。
村長が登り切る数分の間に、芝生は人でいっぱいになった。私は、はじめは数に圧倒されていたが、次第に観察眼が働いてくる。
ここにいる人間は、多かれ少なかれ、顔や手足に化け物の要素をきざしている。ヤマイの進み具合には差があるらしく、進行が速いものと遅いものは、たいていは二人一組になっている様子が見受けられた。
村長は頭上からレシーバーを取った。レシーバーは、らせん状に畳まれた伸びるゴムの線で、櫓の上部に設置された拡声器と繋がっていた。おはようございます、という声が何十倍にも拡大され、広場に響き渡る。
「今日、市政の横暴はとどまるところを知りません。街たちにあった尊大なるじかんは、我々を追放しました。我々は遅かれ早れ、生きるよるべを探してこのホームへと至ります。ホーム設立者、ジロウ・ソノダ・ハコダテの遺志と言葉を借り、我々はじかんを感じ、じかんとともに死に向かうでしょう」
骨ばった手で背中を押される。
私の額に、紅い朝日が差す。
「そんなホームに、加わる者がおります。あたらしい入居者――ケン・サトウです」
〈入居者〉たちは、各々顔を上げて私を見る。歓迎とも敵対とも取れぬ目つきだった。
しばらく無数の懐疑的な目つきに晒されたあと、村長は私を下がらせた。そして櫓の床に置かれていた箱状の機材の砂埃を払うと、反り返ったスイッチを押し込む。
雑音が走った。
村長はレシーバーを持ってきて、機材の側面に当てるように置いた。そして別のスイッチを入れた。
拡声器を通して、拡大された音楽が流れ始めた。古典的民謡のような軽快なリズムに続き、ラジオタイソウダイチ、というフレーズが流れる。
私は櫓の塀に手をついて、広場を見渡す。皆、一心に音楽に合わせて体を捻ったり、両手を回したりしている。
村長も皆がやっているのに近い動きをしているが、少し緩慢だ。とくに、前屈をしながら両足の狭間に頭をねじ込むという運動をこころみた彼は、ひどく息を荒げ、やがて腰に両手をついてゼエゼエと息を切らした。
「複製され続けた、太古のメロディです」
息を吸す合間に、村長は言った。
「我々は、朝の歌と、呼んでいます」
朝の歌は十分ほど続いた。
曲が終わると自動的に、人々はそれぞれの居場所に戻っていくようだった。疲労する村長の肩に腕を回し、ジーナが寄り添って階段を降りていく。その後ろに続いて降りていくと、走り寄ってくる男の姿があった。
「村長、ごくろうさまです!」
金に近い黄土色の髪と、茶色い目を持った快活な男だった。はつらつとして伸びる長い髪の毛を持ち、肌はみずみずしく、とても奇ビョウ――ローイングを罹患しているとは思えない。
「彼が新しい入居者だね?」
男は前のめりに訊ねた。
ジーナが億劫そうにうなずくと、男は胸ポケットからペンのようなものを抜いて、私の目の中に向けてきた。鋭く透明な光が眼球に突き刺さり、私はとっさに目を閉じた。しかし私が非礼を抗議する前に男は、片方の目にも光を当て終えていた。
「まだそれほど進行していないみたいだ。ほとんど僕たちと変わらない。第一段階の中期ってところだ」
楽観的な表情の男に向けて、ジーナが鋭い視線を送る。
「まあ、それでも、健康診断はみんなやるのが決まりだ。僕はディック・ミツコシ・ウエストヴァージニア。〈医者〉をやっているんだ。僕の家においで」
ジーナはディックの言葉を確認するとすぐに、村長と共に歩き去った。その後ろ姿を見送ったディックは、肩の角度をなだらかにさせた。
「悪く思わないでね。ジーナは、危機管理委員なんだ。みんなの不安を一手に背負っているからね」
「あの、少し休ませてくれないか」
「そうだね。ケンも疲れているだろうし。どのみち診療所には寄ることになる。今は持ち家もないだろうから、まずは僕の家へ。大丈夫。診療用のベッドでそのまま眠るといいよ」
ディックに案内されるがまま、私はホームを縦断するように歩いた。
都市における診療所とは、精神を浄化する場所を意味した。不安を感じた人が、診療官に悩み事を打ち明けるのである。ところがホームでは、診療所とは体調の管理に関するあらゆる行為を行う、回復センターのような場所らしかった。
「診療所っていうのは、医療を行う場所のことなんだ。僕も、最初にここにきた時は、びっくりしたんだけれど」
私が黙っていると、ディックは深く考え込み、しばらくして顔を上げた。
「〈病気〉は回復で綺麗さっぱり治すものだよね。でも遠い昔は、医療というものを用いていたんだ。言ってみれば、不完全な回復のことだよ」
都市では、セイジンした人間は、八十歳になるまで生命を保証された。回復はどんな病も治すことができた。人はいつだって命に選ばれていた。
だがこの場所に、もう回復はない。
そもそも回復に見捨てられたからここにきた。
「不完全と言っても、医療は高度な歴史の積み重ねなんだ。人の体を知ることが第一歩。面白んだよ。神秘なんだ。人間ってね、不思議がたくさん詰まってる」
「どうだっていいじゃないか、そんなこと。あまり、喋らないでくれ。頭に響くんだ」
ディックは、そうかい、と一言寂しそうに呟いた。
目的地の家は、小屋の密集地からだいぶ離れたところにあった。その代わり、他の小屋よりひとまわり大きく、二階建てで、屋根裏と思しき部屋にも窓がある。
ダイアル式の錠前を施しただけの、簡単な施錠がされた玄関をくぐると、程良い涼しさの室内には、石造りの床があり、木製の机と、ベッドが三つほど置かれていて、それぞれが荒い目の布で仕切られていた。
私はベッドの一つに腰を下ろすと、もはや数秒も座位を保っていることができなかった。傾いた視野の中で、ディックが二階へ上がるはしごを登っているのが見えた。
私は全身にまとわりついた土と汗の匂いに埋もれて眠った。
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