後章 赤い十字と白の塔 1
一度として振り返ることはなかった。
振り返れば、足が止まってしまうとわかっていた。
背中には銃口が突きつけられている。
走る以外に道はなかった。
月の光は脆弱すぎて、木と土と岩をいっさい同じものに見せた。踏んでいる地面も肌に触れる葉や枝も、すべてがゴミ――空気すらゴミくさい気がして息が詰まった。
学校では、ゴミ捨て場は何もない場所だと教えられた。ふざけてゴミ捨て場に行きたいと言う者がいると、先生は決まって冷笑して、行けばいいと言った。十五年制学校の中等部くらいまでは、実際に行こうとした男子生徒がいたが、彼は手続きの面倒さに駆られて、結局探検をやめてしまった。
都市はゴミ捨て場へ出ることを、少しも禁止してなどいなかった。しかし、あの割れて砕けた月へ行きたがる者がいないように、ゴミしか存在しないゴミ捨て場へ行きたがるものもまた、いなかった。
「こんな世界が広がっていたなんて」
進めど進めど植物の気配が消えることはない。これは純粋な発見だ。
しかし好奇心のともしびに縋って暗路を進むには限界があった。
ひときわ大きな木に手をつき、息を整える。
息を吸うと、匂いは嫌だったが、肺に湿った空気が入り込み、体を内側から冷やしているのがわかった。都市の風は乾いていて暑い。だから野外で深く呼吸をすると胸焼けがした。
けれどここは違う。ここの空気はなぜか深くまで吸い込める。
そのまま寄りかかって袋を開け、二本あったボトルの片方をたちまち飲みきった。ボトルを投げ捨てようとしたが、しかし、のちに水を確保するために必要になるかと思って、やめた。
疲れがどっと湧いて出て、心細さも増した。
ポケットが熱くなっていると感じた。慌てて中を確認すると、携帯端末の画面が光っている。いつの間にかカメラが起動していたのだ。
私は舌打ちをした。電源は残り半分ぐらい。バッテリー半分で、電話会社は一週間は保つと広告するが、実際のところは三日が限度だ。
あと三日。
こんなところで使っている場合ではない。
電源を消そうとしたそのときだ。
幹に触れていた左手が違和感を捉えた。苔に覆われた生の木とは何かが違う手触りだった。
端末の電灯機能を使って照らしてみると、樹皮が一定の幅に削り取られ、生木の淡黄色い内側がむき出しになっている。
「これは……」
私はその溝を指でなぞった。
都市の外に人間の集落があるなんて、聞いたことがない。私は、この鬱屈としたゴミ捨て場を歩き続け、別の都市へ向かう腹づもりだった。これは化け物がやったことだろうか。
木の皮を削り取ったり、根を引きずり出したような跡がある。
足が何か硬いものを踏む。
光を向けると、土に埋もれて見えづらい。しゃがみこむ。すると、指ほどの太さの麻縄が見つかった。
人間がいる、という確信が私の心に灯る。
都市同士の貿易は〈日時計〉と呼ばれる大通商団が担っているが、今は北方都市と東北都市間の行商を行なっていて近辺には不在だ。その裏で、高い関税を避けて密輸に手を染める闇の通商団の噂がある。この縄がもしその通商団のものなら、別の都市へ連れて行ってくれるかもしれない。近くで野営している可能性だってある!
足音がした。二、三人ぶんだ。
高揚のあまり、耳が都合のよい幻聴を聞かせたのではないかと疑った。しかし二度、三度と、それは繰り返された。
私はついに声をあげた。
「おーい、おーい」端末の光を頭上で振り回しながら、声を張り上げる。足音は少し早まり、近づいてくるようだった。
私は目を凝らし、そよ風とは別の動きをする枝を探った。そして闇の中に、反射する二つの眼球を捉える。
眼球は、私を見ていた。けれど声は上がらないし、それどころか、顔の角度も一切変わらない。不気味だった。
顔をもっとはっきりと確認しようと、枝をかき分ける。
その時である。
「お母さん!」
はりのある女性の声が聞こえると、眼球がぐるっと動いて、顔は反対を向いた。そしてまた闇中に歩き出そうとする。私は逃すかとばかりに手を伸ばし、腕をつかんだ。
指先に触れた感覚は、異様だった。熟れたトマトのような柔らかく乾いた皮が、細い骨の上を前後左右にどろりと滑る。
私は、顔を確認するまでもなく、それが何なのかわかった。
化け物だ。
直後に、大きな光が私の目に入り込む。しかしそれは相手も同じだった。光源を地面に落とした相手は、化け物の肩を抱くようにして引き寄せ、立ちすくむ私を見て、言った。
「誰?」
すぐにしゃがんで光源を取り戻したその女性は、私を照らしながら凝視する。あまりの光の強さに、私は腕で目を覆う。
「手をどけて!」
女性の怒号が飛ぶ。
私だって植物の種や棘だらけの袖を顔に近づけたくなどなかった。
「光が強すぎるんだ。ライトを下ろしてくれないか」
女性はライトを地面の方へ向ける。そしてお互い一切表情を動かさずに、少しの間見つめあった。赤い髪に、紺碧の目をした女性だった。ひどくやつれていると思ったが、昨夜見た自分の顔を思い出し、それと比べればまだ潤った顔をしていると思い直す。
「あなた、普通に話しができるのね」
驚いたように話す女性は、出方をうかがいながら、ゆっくりと私に近づいてくる。
「なら、まだ日が浅いのね」
「日が浅いって、何のだ」
私が訊くと、女性はからからと笑って人差し指と中指を立てた。
「二つの意味があるわ。都市の外での生活ってこと。それと、ローイングとしてのキャリア、かしら」
女性に手を掴まれていた化け物が、首をぐるりと回した。
そして、あら、この人は、どなた、と囁いた。
まごうことなき人語をである。
一瞬面食らったが、思えば私はすでに人語を話す化け物を見ている。私はフリンジのことを、ガスマスクを被っていた頃は、背の低い人間だと思っていた。知能を持った化け物は存在する。いや、そもそも、知能を持った人間が化け物に変わる、ということなのか?
「どなた」
化け物の右目と左目は、それぞれ別々の方向を見ていた。そして右目だけが、ぎょろりと動いて私を捉える。
私は危機を感じ、後ずさった。
「この人は、新しく『家族』になる人よ、お母さん」
「そうなのね、ところで、おじょうさん、あなたは、どなたなの?」
「私は、お母さんの娘よ。お母さん」
化け物は、口を真横に押し広げて、皺だらけの顔をより皺ににじませてみせた。とても直視できず、私は目をそらした。
「ついてきて」
そう言って、女性は化け物を連れ立って歩き出した。
私は、付いていくことしかできなかった。
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