雪国編
その1 "私"
2015年10月。エレベーターで一階に降りた私の前に、その男は姿を現した。
仕事場の入っている商業施設のエレベーターホールから吹き抜けのエントランスを超えたその向こう。玄関の自動ドアをその男がくぐってくるのが見えた。
距離にして10メートルはあったが、それでも目につくその巨体、明らかに肥満だった。
私はその男とは初対面ではあったが、前もって上司から「大きい体をしているよ」と聞かされていたので、私はすぐに「あいつだ」と判った。
向こうも私のそんな様子に気付いたらしく、こちらに視線を向けながら近づいて来て、どちらからともなく「あ、何々さんですか?」とお互いを確認しあった後、私はその男を仕事場まで案内した。
仕事場への道すがら、その男にほんの時候の挨拶と、軽い自己紹介などしてみたが、その男はしきりに私の腰のあたりと廊下の壁に視線を行ったり来たりさせながら、人見知りがちにボソボソと返事をするだけだった。
いくつかした質問でわかった事は、その男は私の3つ下でその会社での勤続年数も私より少ない、いわゆる後輩であることだった。
自分の仕事場に入出した私はその中で一番偉い責任者の元にその後輩を連れていき
「来月からこっちで作業することになる、○○君です」と紹介し、続いて私の直接の上司への面通しを済ませた。
30になったばかりの私に出来たその"後輩"は12月から始まる仕事の補充人員だった。
仕事といってもまだ本格的に始まっておらず、まだどれだけの人数が必要かもわからなかったが、流石に私一人では足りないだろうという勘定で、他の現場からこっちに移籍する形でこの後輩が回されてきたのだった。
最低限の挨拶周りを済ませた私は、その後輩を私の隣に用意した席に案内すると、後輩はその椅子に大きく軋ませながら座った。
この後輩に來月から始まる仕事に必要な技術を習得をさせる、それが目的でまだ他の現場に従事している後輩を、定時過ぎの残業という形でこの現場に呼び出していたのだった。
まず、これからする仕事のために必要なスキルを習得しているかどうか?という質問をしてみた。
自信なさげに答えた後輩の返答は、これからの仕事のキモとなる技術は直接触ったことがないが、同じ体系のモノは仕事で使ったことがあるという感じだった。
しかしそれなら少しの教育でモノになるだろう、そう判断した私は後輩に技術の教本を渡し「何ページまでやるように」と指示するとすぐ手持ち無沙汰になり、嫌な気分になった。
まだ始まっていないとはいえ、私はこれから始まる仕事に嫌な予感を感じていた。
「○○○○を運営している会社からの依頼だ」と上司の告げられた会社の名前は、その分野で急成長し今や世界一だった。
そのような有名な会社から私ごときが在籍する会社に直接依頼が来るはず無く、間にもう一つ会社を挟んだ、いわば2次受けだった。
それにしたって私の元に話がくるくらいなのでいい話ではないのだろうと予想をつけるのに苦労はしなかった。
依頼元の社内で作ったMicrosoft Office製品を使ってこさえた何本かの簡易的なマクロプログラムを、クライアントサーバ型の本格的なプログラム言語を用いたシステムに一本化して作り変えるというのが目的で、
1次受けの会社の人間が依頼元の会社に出向き、依頼元の社員の仕事の合間を縫ってその内容をインタビューし、その調査結果を元にウチの会社が具体的なモノを作るという流れだったが
1次受けの調査は遅々として進まず、本数にすれば15本ほどある中で、その内2本、それもほんの概要しかこちらの手元に届いていない状態だった。
その概要というのが概要というにもお粗末で、まだ見ぬ仕事の詳細も1次受けはまとめきれていないのだろうな、と予想するのは容易だった。
まだそんな段階なのに1次受けは「どの機能も単純なモノばかりなので簡単」と言い張ったが、この世にそんな話が存在するわけなく、全てにおいて平均以下の能力しか持たない私でもインチキさを感じ取れていた。
1次受けは、禄に自分たちの仕事の結果を見せれない内から2次受けであるこちらの会社にスケジュールを切る事を求め、その態度にこちらに責任と負担を押し付けたいというのが垣間見えていた。
といっても1次受けは「単純で簡単」と言ってしまっているので、この後来る仕事の詳細が複雑で時間がかかるものであった場合、嘘をついているのは1次受けである。
なぜそんな嘘をつくのか、私は社会に居る間にそういう意味のない嘘に嫌気がさすようになっていた。
少し気分を変えたくなり窓の外を見ると雪がちらついていた。
冬になると世界でも上位に入る積雪量を誇るこの土地は私の地元であり、私はこの土地で身動きがとれないで居た。
私は最初の就職で思い切って関東に出はしたのだが、色々な事情で生まれ故郷であるこの土地にUターンしていた。
車が必須なこの土地で再就職した私はほんの少しの距離も車で移動する様になっており、そのせいもあってか元々苦手としていた満員電車が本当に無理なものとなっていた。
何度か出張や出稼ぎで再び関東に行った際、会社から「そっちで仕事を探す気はないか?」と打診されたが、私は地元に戻る選択をした。
そう提案される背景には、私の成績が悪いのか、会社に余裕がないのか、もしかしたら私の将来を慮ってくれたのでは?とも思ったが
無気力な私はそういうことに真剣に向き合う事を放棄し、またこの不便な地元に舞い戻る選択を自ら選び、誰にも頼まれていない努力と、誰も褒めてくれない苦労をし続けていた。
そうして自らを縛り付けたこの土地の転職事情は厳しく、他の会社と合同で仕事をすることも多いので、転職したとしてもまた今の会社の人間と顔を突き合わせる、ということが待っているのが目に見えていた。
今回の仕事に対しても、どうせ酷い目に遭うという諦めを「あの有名企業の仕事を請け負えば、転職の際に箔がつく、そこまでではなくともハッタリが効く」
と、転職先の地域すら目星もついていないまま自分をそうやって慰めていた。
この自分への誤魔化しは限界に近づいていたが、自分に誇りを持ってもいなければ自分を大事にする事すらできない私は
そうやってひとしきり誰にするわけでもない言い訳を考え終え、久しぶりに出来た後輩に向き直った。
「どう?どこまでやった?」
良い時間にもなっていたので私は後輩にそう声掛けして、勉強の進み具合を確認し、問題ないと判断したので「じゃあ今日は帰って」と後輩を帰した。
せっかく他の場所からこのプロジェクトに来てもらったのに、先行き不安の仕事で後輩にも申し訳ないなと、この時はまだそう思っていた。
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