第49話あなたに贈る、音の束

 今まで、娘に自分のアカウントは明かしたことがなかった。あれは、ネギマ先生のためのアカウントだし、わざわざ知らせる必要もなかったから。炎上騒ぎで多少有名にはなったが、そんなエピソードを鼻高々とは語れない。

「あの……お父さんのアカウントだよね、これ」

 娘が向けたスマホの画面に、静かに頷く。スマホに映っているアカウントは、間違いなく自分のだ。どうしようもなく恥ずかしくて、いたたまれなくなる。

「ありがとう」

 突然、娘がそんなことを言ってきた。訳が分からなくて、思わず目を丸くする。何か言いたかったけれど、声がうまく出なかった。

「私ね、ずっと死にたかった。クラスの人たちに馴染めなくて、陰キャって言われて」

「なのにピアノだけは上手で。それで、クラスの人たちに嫌われてた」

「小学校の合唱会の頃の、友達のこと覚えてる?」

「あれから毎年伴奏を任されるたびに、同じようなことが起きたの。あの子だけじゃない。クラスが変わっても、同じようにピアノを好きな子が、ずるいって言ってた」

「ピアノを辞めれば、楽になれるかもしれないって、何度も思った。でも、楽譜を見るたび、ピアノが目に入るたび、音楽を聴くたびに弾きたくなった。離れられなかった。それで、弾くたびに満たされたの。」

「上手くなれば上手くなるほど、自分は楽しいけど、周りの人たちとは離れていく。それが、つらかった。」

「でも、お父さんとお母さんに迷惑かけたくなくて、学校では上手く行ってるって嘘ばっかついてた。それが恥ずかしかった。しかも、結局不登校になって、迷惑ばっかかけて、死にたくなった。」

 娘が、少しずつ話をしていく。喋るたびに、声が震えて、目には涙が滲んでいた。

 泣き出しそうな娘の奥に、13歳の時に見た、泣きじゃくるあの人の影を見た。

 胸が締め付けられる。今に至るまで、娘の状態に気づけなかったことが、悔しかった。

 娘は、確かに明るい人間とは言えなかった。言葉を選べば、おとなしい子だった。そんな娘のおとなしい人格を、自分の頭の中でもそうやって綺麗な言葉で補完してしまっていた。

 そして、おとなしいだけならまだしも、そこで娘の才能が悪目立ちした。

 そんな1つの才能に突出した人を、周りは疎む。俺はそういう残酷さを知っているつもりで、娘だけは特別だと勝手に思い込んでいた。

 ネギマ先生の時と、何も変わっていない。自分が死にたいと嘆く人間でありながら、死というものに実感を持たなかった。だから、あの人が投稿をしなくなるまで、何も動かなかった。

 俺は、大切なものを全力で愛しているつもりで、その人の行動を、どこか都合よく解釈していた。そして、手遅れになってからようやくそれを理解する。

 己の不甲斐なさに、ただ下唇を噛んで俯くことしかできなくなる。

 黙っていると、そのまま娘が言葉を続ける。

「でもね、学校に行かなくなって、スマホで音楽を聴いてた時に、クラゲさんの曲に出会ったの。それがね、かっこよくて、もうちょっと、生きてみようって思ったの。」

「……そっか」

 娘の言葉に、軽く相槌を打ちながら聞いていく。

「私ね、ずっとクラゲさんの曲ばっかり聴いてたの、再生リストあったから、それだけ。でもね、この間、ギターの練習風景を見てみたの。そしたら、お父さんの部屋っぽいし、ギターもお父さんのっぽくて、もしかしたらって思ったの。」

「……幻滅した?」

 結局、娘の話を聞いて出てきた言葉は、それだけだった。その言葉に、今度は娘が目を丸くする。

「きっとお前が想像したクラゲさんは、もっとイケメンで、もっと若い、お兄様とかだろう。それが蓋を開けたら自分の父親ってわかって、ショックだったか?」

 少し、自嘲気味に笑いながら言った。もう流石に、俺もオジサンと呼ばれる年齢だ。なるべく若く見えるように、身なりには気を遣っているものの、限界はある。

「……ちがう。お父さんってわかったから、私、お礼言いたくて」

 その言葉に、少し黙り込んでしまう。愛しい娘が死ななかったのは何よりだけど、俺が、このアカウントを通して救いたかったのは――。

「その、ありがとう。私を、救ってくれて。生きたいって、思わせてくれて」

 せめて目を合わせて話をしようと、顔を上げた。そして、娘と目が合う。その瞬間、言い表せない衝撃が、体を突き抜けた。

 全身に鳥肌が立って、強い感情が溢れ出そうになる。

 弱々しくそこに立つ娘と、あの人の影が重なった。

「ネギマ、先生……」

 顔も、性別も、年齢も知らない、俺の神様が。俺の思い出の中で、泣きじゃくっていた、哀しい少女が。どこかで生きていると信じてやまなかった、救世主が。

 ――そこにいると、なぜか確信できた。

 一瞬だけ、触れたくなって、手を伸ばす。しかし、すぐに我に帰って、手を引っ込めた。

「あ、なんでもない。その、こちらこそ、生きていてくれてありがとう。これからも、応援よろしくおねがいします……?」

 家族にしては遠すぎて、視聴者と投稿主にしては近すぎるこの関係に、なんて声をかけるのがせいかわからなくて、言葉の最後が曖昧になる。

 そんなぎこちない返事を最後に、会話が止まる。少しだけ気まずい沈黙が流れた後、娘はようやく俺に背を向けて去っていった。

 なんとも言えない達成感に包まれた俺は、再びギターを抱えて、弦を弾く。俺の願いは、きっと届いた。そう胸を張って言えるぐらい、幸せな瞬間だった。

 ヒグラシが鳴く夏の最中、俺は、大切な人を救った気がしました。

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音圧に殺されたい @omurice_a

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