第46話火種

 そんなことがあってからも、娘はずっとピアノを愛していた。鍵盤を叩く時の娘は、どんな時よりもいきいきしていた。キラキラと目が輝いて、その瞳の中には、探究心と、純粋な楽しみで溢れている。

 例の友達とは、まだ仲直りができていないらしい。それでも、たとえ誰にずるいと言われようと、娘は鍵盤から指を離さなかった。

 ひとまずは安心したが、相変わらず突っかかってくるらしい友達には、少しばかり不満が募る。その場の感情で言葉が先走るのはまだ我慢しよう。しかし、時間が空いてもまだ引きずるのは、流石に見過ごせない。

 俺は学校に電話をした。娘が友達に「ずるい」と言われたこと、時間が空いてもまだ突っかかっていること。

「子供たちの問題に、大人が割り込むのは好ましくないということはわかっています。それでも、ずっと引きずって突っかかるのは、いかがなものかと思います。いじめに発展する恐れもありますので、一度話す機会をください」

 感情的にならないよう、なるべく正当な理由を並べて、話し合いの場を設けてもらう。

 後日、学校の小会議室で、俺は担任の先生と、相手の親を交えて話し合う。

「まず、うちの子がお宅の子にずるいと言われた件について、そちらは把握しているのでしょうか?」

「……いえ、娘の様子がおかしいとは薄々思っておりましたが、そんな話は一度も。本人にそれとなく聞いても、はぐらかされるばかりで。本日担任の先生から話を聞かされるまで、何も知りませんでした。」

 相手の親は、深々と頭を下げる。その言葉に、嘘はなさそうだった。

 そしてしばらく大人だけで話し合い、娘と相手の子を呼んでもらう。どちらも目を伏せたまま、黙りこくっていた。

「何を黙っているんだ!謝りなさい!お前が悪口を言ったんだろ?!」

 相手の親が語気を強めて、無理やり謝らせようとする。

「そこで怒鳴るぐらいなら、最初の様子がおかしい時に理由を聞き出せませんでした?」

 ただ淡々と話してしまう。自分でもびっくりするぐらい、冷たい声だった。

「す、すみません……」

「ここは、謝罪がメインの場ではありません。れっきとした話し合いの場です。なのに、主役の子供を萎縮させては話になりませんよ。」

「はい……」

 この言葉で、また空気が重苦しくなる。自分も十分場を害したな、と少しだけ後悔した。

 そんな気まずい雰囲気を破るように、担任が咳払いをする。

「まずは、順番に話そうね」

 担任が優しく促すと、相手の子はぽつりと呟いた。

「私もピアノ好きだし、上手なのに、伴奏やっていて……嫌だった」

 子供らしい、身勝手な理由だった。でも、大人がいうよりは腹が立たなかった。

 やがて、娘が絞り出すように言う。

「私は、ピアノが好きなの。だから、いっつも練習した。悪いことしたつもり、なかったの。」

 娘の言葉に、俺は頷く。

 二人の間に、重い沈黙が落ちた。

 担任が少しだけ笑って言う。

「好きなことを頑張るのは、悪いことじゃないよ。でも、比べちゃう気持ちも、わかるよね」

 相手の子はかすかに頷き、娘に小さく「ごめん」と言った。

 娘も「うん」と返す。

 それだけの会話だったが、わずかに空気が柔らいだ。

 教室へ戻っていく二人の背中を見送りながら、俺は胸の奥に残るざらつきを振り払えずにいた。

 表面上は収まった。だが、娘の才能はこれからもっと目立つ。

 今日の小さな火種が、いつか大きくならなければいいが。

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