第45話合唱会

 娘が小学4年生の頃、合唱会の伴奏を任された。

「お父さん!今度ね!合唱会の伴奏するの!」

 意気揚々と伝えにきた娘の頭を撫でる。

「すごいね。練習、がんばろうね」

 俺の言葉に娘は元気よく頷いた。

 それから娘は今までよりも、もっと音楽に熱を注ぐようになった。より長くピアノを弾くために、食事の時間を縮めていた。今までは、何か進歩があるたびに俺や妻を呼んでは、自慢げに弾いていたのに、まるでピアノにしか目をやらなくなった。

 あまり大きな音を出せない夜は、ひたすら楽譜の音符をたどって、それをつぶやく。その目は、おおよそ子供のそれじゃなかった。

 そんな娘を、不気味だと思わなかったのは、つくづく俺に似ていたからだろう。

 あの人を追いかけている時の、俺の目と同じ。狂信的で、盲目的な目。

 そんな娘から、楽譜を取りあげて、寝かしつける役目は、妻に任せていた。俺には、できなかった。

 音楽の時間を邪魔されて、娘が一人部屋で啜り泣く日も少なくなかった。その度に、俺は部屋に入って、優しく慰めた。

 妻に汚れ役を買わせている自覚がある分、なんだか手柄を横取りしているようで気が引けたが、それでも、部屋で泣いている娘を放っておくことはできなかった。

「ぐす……ひっく」

 その日も、娘は泣いていた。部屋のドアをノックして、恐る恐る入る。

 娘の部屋の棚や壁には、たくさんのトロフィーや賞状が飾られている。全て、ピアノのコンクールで金賞を取って得たものだ。娘は、ピアノのコンクールに出るたび、金賞をもらってきた。

 その結果たちには大いに納得できる。娘は、何よりもピアノが好きで、ただ音楽のために幼い頃から全部を注いでいるのだから。

 部屋中に、1番を代表する代物たちが目に入る。その度に、俺は誇らしさが込み上げる。

「眠れない?」

「……うん」

 そんな短い会話の後、また沈黙が流れる。その沈黙を埋めるように、娘の頭を撫でる。

 やがて娘は瞼を閉じる。そっと布団をかけてあげると、俺も自分の部屋で眠りについた。

 そして迎えた合唱会。娘は小綺麗なドレスに身を包み、伴奏用のピアノの前に座る。

 小さな体を、そのまま飲み込んでしまいそうなほどに大きいグランドピアノは、妙な迫力を放っていた。

 やがて、指揮者である担任の先生が、腕をあげる。そして、娘が指を、鍵盤に沈ませた。

 合唱の結果は、3位にも入らなかった。

 しかし、娘は、最優秀伴奏者賞に選ばれた。正直、合唱を聴いている時から、この結果は見えていた。

 娘の前奏を聞いた瞬間、周りの人たちが一気に期待する眼差しを向けるのを感じた。しかし、他の子たちが声を出した瞬間、落胆するような雰囲気が、場を包んだ。

 決して、全体的に悪くはなかった。だが、あまりにも期待値が高すぎたのだ。伴奏ばかりが完璧だから、年相応の歌声は、上がったハードルを越えられなかった。

 娘は、賞状を抱えて、複雑な顔をして、家に帰ってきた。

「ただいま……」

「おかえり。……なにかあった?」

 しゃがみ込み、今にも泣き出しそうな顔になる娘と目線を合わせて、そう聞いてみる。

 娘の顔が、どんどん哀しげに歪んだ。

「あの、ね。お友達に、ずるいって、言われて……」

 それから、娘は涙声で事情を話していった。

 大体、予想がつく内容だった。

 自分たちは3位にも入れなかったのに、伴奏を担当した娘だけが1位を取ったのが、友達は気に食わなかったらしい。

 しかも、その友達は、娘と同じく伴奏志望の子だったらしい。

 伴奏をどちらがやるかを巡って、オーディションを行った結果、娘が伴奏の枠を勝ち取ったのだ。別に何も驚きはない。あれだけピアノに熱中していれば、その結果にも頷ける。

 大人の視点から見れば、娘は何も悪くない。娘が伴奏に選ばれたのは、贔屓されたからでも、教師陣が脅されて選んだからでもなく、純粋な実力だ。そして、選ばれてからも、娘はひたすらに努力を重ねていた。時間の許す限りを、ピアノに、音楽に注いでいた。だから、最優秀伴奏者賞に選ばれた。

 当然の道理だ。娘が責められる謂れはない。だからと言って、学校や、その子のことを責めるのは、なんだか気が引けた。

「……お父さんのギター、聴く?」

「……!うん!」

 そうして、俺は俺の部屋で、娘にギターの演奏を披露した。

 曲は、「眠る海」。20年以上経っても、この曲は、俺の中の1番だ。

「お父さん、この曲好きだよね」

 娘が、ふとそんなことを呟く。

「……そうだね、この曲は、お父さんの1番のお気に入りなんだ。」

 優しくギターの弦を撫でながら、そう返す。本当は、もっと語りたい。この曲について、この曲が与えた、俺の影響について。全部、話したい。でも、言ったところで、きっとわかってもらえないから、俺はお気に入りという言葉で片付ける。

「私もね、その曲好き。お父さんが弾いてるのしか聞いたことないけど、優しい音だから」

 娘のその言葉に、頬が緩む。やっぱり、ネギマ先生の曲は魅力的なんだ。

 しばらく弾いていると、娘がうとうとしてくる。合唱会もあったし、お友達とも一悶着あったし、疲れたのだろう。

 ギターを置いて、娘を抱き上げると、ベッドに寝かせる。

 妻が買い物から帰ってくるまで、ベッドで眠る娘の横で、ひたすらギターを弾き続けた。

「ただいまぁ……あ、いいな。私にも久々に演奏聞かせてよ」

 妻が帰ってきて、買い物袋を片手に言う。

「……おいで」

 俺がそう言うと、妻は買ったものを冷蔵庫に入れてからすぐに部屋に入ってくる。しばらくの間、静かで、穏やかな家族の時間を過ごした。

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