第44話重なる
あれから娘はさらに自信をつけたのか、ピアノにより一層打ち込むようになった。
保育園から帰ってきては、手を洗って、ずっとピアノ三昧。休日は朝起きてから、夜寝るまで、ずっとピアノから離れない。
娘がこんなに早いうちから、強い関心を持つものに出会えてよかったという嬉しさと、自分たち親に関心をもっと示してほしいという寂しさが同時に渦巻いた。
そんな葛藤を抱えていたある日、作曲作業をしていると、娘が俺の部屋に入ってきた。
「ぱぱ!みて、みて!」
娘に手を引かれて、たどり着いたのは、やはりピアノの前。近くの椅子に腰をかけて、娘がピアノを弾くのを待つ。
娘は、オリジナルの曲を弾いていた。とは言っても、完全なオリジナルじゃない。少しだけ、俺の音楽を含んでいた。妻がいつも、娘と一緒に口ずさんでいるからだろう。
俺は、少しだけ複雑な心境だった。
俺の音は、ネギマ先生を研究した末にできたもの。独立した音じゃない。だから、今娘が奏でているその音が、どうしてもあの人の音と重なってしまう。
余韻を残すようにギリギリまで引き延ばされた音。
心が沈んでしまうほど重苦しい調。
少しでも音を立てれば、掻き消されてしまいそうなほどの儚げな音量。
全てが、俺がよく知る、ネギマ先生の音だった。それが、心地よくて、哀しかった。
娘のことは大好きだ。愛している。同時に、あの人のことも、本気で崇拝している。ベクトルは違えど、好きなものと好きなものが重なれば、嬉しいはずなのに。なぜか、怖くてたまらなかった。
『私は、死にたくて曲を作っています。』
頭の中で、昔の先生の呟きが、娘の声で再生された。
俺は慌てて娘の両手を掴む。
「……ぱぱ?なんで、ないてるの?」
娘の言葉に、ハッと我に返る。そして、自分の頬を伝う生暖かい雫を自覚した。
そうだ。俺は、怖いんだ。また、大切なものが、帰ってこなくなることが。あの人のように、娘もいなくなってしまうことが。
まだあの人は、俺の中では、死んでいない。死んだという、確実な証拠がないから。まだ、誰もそれをつかめていないから。どこかで生きていると、まだ希望が持てる。
でも、目の前の娘はどうだろう。自分が家族である以上、死んでしまったら絶対に死んだという事実が知らされる。あの人のように、生きてると盲信することは、限りなく難しい。
どうしよう、やめさせたい。今すぐ娘を音楽から引き剥がしたい。でも、俺の都合で、そんなことはしたくない。
結局、俺は娘の手を離して、ゆっくりと鍵盤の上に置いた。
「ごめんね、あまりにも演奏が素敵だったから、感動しちゃった」
無理やり笑顔を作って、自分の涙の理由を偽る。娘は不思議そうに首を傾げていたが、結局鍵盤の方に視線を戻して、曲を弾き続けていた。
聞けば聞くほど、あの人の音が重なっていく。大好きな人の音のはずなのに、今は、ものすごく聞きたくなかった。
それから娘は小学校に上がった。一番好きな教科は案の定音楽。毎日大切そうに音楽の教科書を抱え、家でひたすらその教科書に載っている曲をピアノで演奏している。
日に日に強くなっていく娘の音楽への熱量を見て妻は笑って言った。
「あなたに似たのね。」
その言葉に、俺は何も返せなかった。親として、娘が自分に似た特性を持ってくれるというのは、嬉しいことこの上ないだろう。でも、あの人の音が重なるたびに、どうしても不安が押し寄せる。
息ができない。もっと、別の何かなら、どれだけよかっただろうか。音楽じゃなくて、もっと別のものなら。
そんなことを思いながら、ピアノを弾く娘の後ろ姿を、ただぼんやりと見つめていた。
妻が口ずさんだことのないような曲調を、娘が演奏するたびに、心臓が変な跳ね方をした。
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