第40話妻のため

「赤ちゃん、できたの!」

 彼女の声は震えていた。驚きと、喜びと、それから、少しの不安が混ざっていた。

 ペンを握ったまま、彼女の方を振り返る。机の上に散らばる紙には、大量の歌詞が書き連ねられている。

「そっか、おめでたいね」

 笑顔で、そう答えて、俺は妻を抱きしめる。彼女の髪を撫でる手は、腱鞘炎のせいか、震えていた。

「大事に育てていこうね」

 優しくそう囁いてあげると、妻は嬉しそうに、噛み締めるように頷いた。

 生まれてくる子も、妻のことも、大切にしていこう。心の中で、そう誓った。

 それからは、妻の周りの世話をすることが増えた。匂いが強いものはあまり良くないから、なるべく料理の味付けは薄くして、揚げ物や炒め物は避けた。

 ネットでおすすめの食べ物を調べて積極的に採用した。

「今日のご飯、大丈夫?」

「うん、美味しいよ。いつもありがとう」

「美味しいならよかった。あんまり無理して動かないでね」

「……ごめんね、私のせいでまともに音楽制作できてないでしょ」

「そんなことないよ。大丈夫。」

 俺は言葉を偽った。本当は、仕事から帰って、妻の世話をして、妻が寝た深夜にこっそりと作業をしている。

 まだ無理ができる程の体力はあるが、正直めまいがするし、高校生の時のような底なしの体力はもうない。

 誰もいない静かな作業室で、1人ギターを弾く。まともに頭が回らなくて、ミスが多くなる。

 自分の老いを目の当たりにして、自嘲を孕んだ笑いが込み上げてきた。

 ふらふらになりながらも、あの人のために動く時だけは、妙に気分が高揚した。もっと、音を捧げたい。だけど、そんな俺の興奮とは裏腹に、俺の体はどんどん不調を訴えていった。

「……ねぇ、少し休んだら?顔色悪いよ」

 妻の妊娠が発覚してから数ヶ月のある日、妻がそんなことを口にした。

「ん?あぁ、大丈夫だよ」

「お願い、私もう安定期に入ったし、流石にそんな顔色で面倒を見られても、不安だよ」

「大袈裟だね、大丈夫だって」

 そう言いながら、スマホのカメラを起動して、自分の顔を見る。目の下にはクマができていて、顔面は蒼白。ゾンビみたいな顔だった。

 確かに、こんな明らかに不調な人間のそばにいても、不安だろう。致し方ない。そう思い、席を立って、妻の手を引いて寝室に行く。

「じゃあ、一緒に寝よう。俺が寝ている間に何かあったら、嫌だから。」

 妻は少し驚いたように目を見開いて、すぐ嬉しそうに目を細めると、俺に擦り寄って、寝息を立てた。

 彼女が寝たことを確認すると、俺の瞼も重くなってくる。だんだんと目の前が暗くなっていって、夢も見ないで深い眠りについた。

 次に目を覚ましたのは、夕方も過ぎて、空がオレンジ色から紺色に変わっていく頃だった。

 妻はまだ、俺の腕の中にいる。体に不調はない。

 大きくなったお腹には、新しい生命の小さな鼓動があった。

 妻を起こさないように、ゆっくりとベッドから降りて、自分の部屋からギターを取ってくる。

 起こさないように、子守唄を歌うように、静かに弦を弾く。優しい音が、部屋を包んだ。

 妻は目を閉じたまま、嬉しそうに微笑む。

 しばらく、そのままギターを弾き続ける。歌は歌わず、楽器の音だけが響いていた。

 やがて妻が目を覚ます。瞼を擦って、体を起こすと、ギターを持つ俺を視界にとらえる。

 一瞬だけ驚いたように目を見開くと、愛おしげに目を細める。

「それ、弾いてくれてたの?夢の中でも、あなたがギターを弾いてくれてた。」

 妻はベッドから降りて、俺の手を取り、優しく指を絡める。しばらく、そうやって恋人繋ぎをしたまま、2人で見つめあっていた。キスもせず、ハグもしない。ただ、手を繋ぐだけだった。

 やがて妻の手が俺から離れていく。どこか名残惜しそうに、指を残すように離していく姿は少し可愛らしく、いじらしい少女のようだった。

「じゃあ、俺夕飯の支度するから、ソファに座っていて。無理に動かないでね」

 妻にそう言い残し、ギターを部屋に置いて、キッチンに向かう。妻は俺が言った通り、ソファに座ってテレビを見ている。

 今日の夕飯は味噌汁にご飯、蒸し鶏とブロッコリーのサラダだ。

「簡単なものになっちゃったけど、これでもいい?」

 妻が座るソファの前のテーブルに食事を置くと、自分用の同じメニューをその隣に置く。

「うん、大丈夫。いつもありがとう」

 そう言って、二人で食事をする。テレビを見ながら、他愛もない話をしていた。

 二人とも食べ終わり、食器を片付ける。

「お風呂、あとで沸かしておくね」

 今日は少し長い時間昼寝をした分、風呂掃除や洗濯などの家事がまだできていない。幸い洗濯はあまり溜まっていないから、そこまで急がなくてもいいが、風呂は早く沸かさないといけない。

 急いで風呂掃除をして、設定温度を低めにし、妻が入りやすいようにしておく。

 なるべく妻の動きは最小限にしなければと、忙しなく動いていると、妻が俺の服の裾を、弱々しく掴む。

「ねぇ、私のことを気遣ってくれているのは嬉しいんだけど、 私も運動しなきゃだから、その……頼ってね?」

 そう話す妻の声は、少し切実なものだった。

 彼女の方を振り返り、頭を撫でる。

「そうだね、ごめんね。少し過保護すぎたかもしれない。じゃあ、洗濯物取り込んでくるから、畳んで置いておいてもらえるかな。俺が仕事に行っている間も、できそうなら食器の片付けとか、お願いしようかな。でも、無理はしないでね」

 そう言うと、妻は嬉しそうに目を輝かせる。俺は彼女のことを思って、なるべく危険から遠ざけていたつもりだったけど、あまり禁止しすぎるのも窮屈だったのかもしれない。

 今までのことを反省して、少しだけ妻に家事を手伝ってもらった。

 妻を支えながら、少しずつ、少しずつ、俺は曲を描いていった。そして、彼女の出産予定日がいよいよ間近に迫った頃。

 そうして、多少の反省や学びを得ながら、日々を過ごしていると、急に妻が痛みを訴えてうめき出した。

 ちょうど、一曲作り終えて、最終確認の後に、Me tubeに投稿した時だった。その曲は、自分の中での最高傑作だった。

「うっ!」

 すぐに状況を察して、急いで病院に連絡をしてから、妻を車に乗せて、安全運転で病院に向かう。はやる気持ちを抑えながら、彼女を刺激しないように。病院に着くなり、俺は妻を抱えて、受付に行った。

 そこからはあっという間だった。

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