第29話あなたへ
アカウント名は「クラゲ」。あまりアカウントの名前に理由はない。自分の名前が、海に月と書いて、それをクラゲと読むから。ただそれだけだ。
動画のタイトルは、「ギター練習1日目」。説明欄のところには、「ネギマ先生に、届きますように」と添えた。
それから、毎日必ず、1時間以上練習をした。そしてそのおさらいというように、五分弾いたものを、Me tubeに投稿した。俺のルーティンが、1つ増えた。
そんなことを続ける理由は、ただ1つ。ネギマ先生に、この音を届けたいから。もう一度、あの人に音楽を投稿してほしいから。あとたった一曲でも、あの人の曲を聴きたいから。
――ネギマ先生の曲に出会ったのは、中学一年生の、春の日だった。
◇
俺は、自殺志願者だ。人生に疲れていた。誰かの顔色を窺って、自分を精神的に殺す日々が、ただしんどかった。
我慢ばかりで苦しいのに、まだ人生は13年目。俺は、その事実に絶望した。
もう終わろう。そう思って、ある日の深夜、親が寝静まった頃に、ロープを部屋の天井に固定した。
すると、スマホに一件の通知が入った。俺のお気に入りのアーティストが、新曲をMe tube投稿したらしい。
どうせいつでも終われるし、これだけ聞いてから死のうと思った。
アプリを開いて、ぼーっと曲を聴く。あまり歌詞の内容も、メロディも入ってこなかった。動画を閉じようと、画面をスワイプしようとした時、誤ってスクロールをしてしまった。
「ん?何だこれ」
すぐにスワイプして画面を閉じようとした時に、1つの動画が目に留まった。タイトルは、「名称未設定」。サムネは真っ黒い画面。全く中身の想像がつかない動画を、俺はいつの間にか開いていた。
動画の内容は、合成音声が歌う、1つの楽曲だった。
さっきのお気に入りのアーティストの曲はろくに頭に入ってこなかったのに、この楽曲は、すっと頭に流れ込んでくるようだった。
合成音声なのに、優しく、まるで気持ちがこもっているかのような抑揚。
ゆらゆらと水の中を漂っているような、ぼーっと聞いていたくなるメロディ。
そして、優しく死へ誘ってくれるような歌詞。
「逝ってしまおう」
「もう終わろう」
「疲れたよね」
全ての言葉が、天使たちに手を引かれているようで、心地よかった。背中を押されているようで、いっそこの勢いのまま、ロープに首を通そうとした。でも、その言葉たちに頷いていると、1つの歌詞が入ってきた。
「もっと遊びたかったな」
機械が歌っているのに、どこか幼い子供のような、名残惜しそうな声が聞こえた。ギターの音だけが、妙に生々しくて、それが余計に、誰かの嘆きみたいに聞こえた。
「ネギマ、さん」
その動画の投稿主の名前を見て、小さく呟く。何の変哲もない、どこにでもいるようなハンドルネームだけれど、なぜかこの瞬間、その名前は俺の記憶に深く刻み込まれた。
そして気がつけば、俺の指は迷いなく動いていた。名前のないこの曲に高評価を押して、チャンネル登録をし、コメントを残していた。
『この曲、すごく好きです。次の投稿も楽しみです』
そんなどこにでもいそうなコメントを打って、しばらくしてから眠りについた。
ありきたりでも、それが今の自分にできる、いちばんまっすぐな言葉だった。
翌朝、Me tubeから通知が届いた。
『ネギマさんがあなたのコメントにいいねしました』
「え……」
思わず、手が震えた。嬉しかった。側から見れば、たかがいいねのひとつかもしれないが、俺にとっては、恩恵と言っても過言ではなかった。
それが、ネギマ先生という神様との出会いだった。
顔も、声も、性別や年齢さえ知らない。ネギマという名前しか知らないその人を、俺は、狂ったように推してしまった。
それから毎日、俺は祈りを捧げるように、ネギマ先生の曲に聞き入った。あの人が1日1個、何かを投稿するたびに、すぐに視聴し、高評価とコメントを残す。
完成された曲も、数十秒程度の音の集合体も、全てが愛おしかった。神言のように、美しかった。
『今日の作品も素敵でした』
『この音の流れ、とても綺麗です』
『いつもお疲れ様です』
毎日、先生が何か投稿するたびに、そうやってコメントをつける日々が、俺の1日の楽しみになっていた。
どこにでも転がっていそうな、よくある言葉。でも、先生はいつでもそのコメントにいいねをしてくれていた。俺の神様は、俺のことを拒絶しないでいてくれている。俺はそれだけで、心が満たされた。
ネギマ先生が曲を投稿し続けて1年が経った。そこから、毎日来ていた通知がいきなり来なくなった。不安になって、いろんなSNSや、検索エンジンを調べ尽くした。
そして、俺はpuwitterの、ある1つのつぶやきにたどり着く。
『はじめまして。ネギマです。普段は曲を上げています。ストックがもう少しで尽きそうなので、更新はゆっくりになるかもしれません。それでも待っていてくれる人がいるなら、とても嬉しいです。』
先生のMe tubeとのアカウントとも紐付けられていたから、間違いなくこのつぶやきはあの人のものだろう。ひとまず、先生が音楽の投稿をやめていないみたいで、安心した。
『いつも曲の投稿お疲れ様です。無理しないで、ゆっくりと更新してくれたら嬉しいです。いつまでも、待っていますから。』
先生のつぶやきに、そう返信をすると、先生はそれにもいいねをくれた。そのいいねを見るだけで、胸が高鳴るのを感じる。
それから、先生が曲を投稿するたびに、通知に飛びつき、投稿をチェックしていた。たまに投稿されるpuwitterのつぶやきも、一切見逃さずに反応した。待っているとは言ったものの、あの人からの音沙汰がない日は、呼吸の仕方すらわからなくなりそうだった。
そのSNSへの反応の全てに、いいねというアクションで返してくれる先生が、より俺の信仰心を強めていった。
先生は、俺の全てになった。
◇
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