第6話成長
翌日、作曲教室にギターを持っていき、効率の良い練習方法と、いくつかの役に立ちそうな参考書を教えてもらった。
「凪音さんもついに楽器デビューしたのね。先生嬉しいわ」
「でも私、今まで楽器なんてろくに触ったこともなくて、不安で……」
「最初は誰だってそうよ。一番大事なのは、少しでも楽器を触ること。それが一番の上達への近道だから」
そう言って先生は、机の引き出しから分厚いノートを取り出して、手渡してきた。少し汚れているけれど、埃はかぶっていない。きちんと使い込まれているのが十分にわかる代物だ。
「これは私がギターを始めた時に勉強しながら作ったノートよ。たまにこうやってギターをやり始めた生徒に貸出を行っているの。よかったら参考に使ってちょうだいね」
何ページかノートを開くと、全てのページにコード表や、基礎練習のやり方、弾くときのポイントがぎっしりと書かれていた。
「……ありがとうございます、たくさん、練習します!」
こんなにも素敵な代物を貸してもらったことに対する感謝の気持ちと、きちんと先生がノートを貸した価値があると思われなければ、という気持ちが混ざり合い、少し複雑な心境を抱えた。
「まずは簡単なコードを覚えて、それをつなげて弾けるようになること。曲作りをしている凪音さんなら、きっとその練習がすぐ創作につながるはずよ」
「……曲に、つながる」
「ええ。少し慣れてきたら、頭の中で浮かんだフレーズを、ギターで探してみるの。ピアノより制約が多いけれど、そのぶん偶然の出会いもあるわ」
先生の言葉に、胸の奥がふっと熱くなる。まだ何もできないはずなのに、なぜかギターを抱えた自分の未来が少しだけ鮮明に想像できた。
作曲教室が終わり、駐車場の付近で親の車を待つ間、ふと足元に目を向けた。西陽に照らされるギターを背負った自分の影が、なんだかいつもよりも大きく見えた気がした。
家に帰り、さっそく自室にこもって、先生のノートを参考に、コードの練習を重ねてみる。しかし、どうしてもうまく弾けないコードがあった。
それは、Fコードだった。6本全ての弦をまとめて人差し指で抑える「セーハ」というものが、どうにもうまくいかない。他の中指、薬指、小指の位置も気にしていると、どうしてもどこかが疎かになってしまって、音が濁る。
何度も挑戦を重ねるうちに、指は赤く腫れ上がっていく。
「痛っ!」
そして、幾度目かの挑戦で、誤って指をスライドしてしまい、そのまま弦で軽く指を切ってしまった。ただでさえ真っ赤に腫れ上がって指から、血が滲む様子を、ただただ眺める。きっと、これからする練習量に比べれば、こんなのはほんの1%にも満たない。この程度で根を上げていては、両親にも、作曲教室の先生にも、何よりこのギターに申し訳が立たない。消毒をして、軽くティッシュで押さえて、止血したのが確認できてから、再び練習を再開する。
しばらくして、母に夕飯ができたと呼び出される頃には、元の指よりもひとまわりほど大きくなっていた。
「痛……」
茶碗どころか、箸を持つのも一苦労で、夕飯を食べるのにいつもの倍以上の時間を要してしまった。
「どうしたの?その指」
「ちょっと、難しいコードがあって、それの練習をしてた……」
「ギターってそんなに大変なんだな」
「でもギターって、ピック?っていうのがあるんでしょう?それ使ってみたら?」
「ピックは、指と違って複数の音を同時に鳴らすことができないから、ソロギターに向いてなくて……」
「そうなのね、お母さんもっと勉強しなきゃね」
「凪音は偉いなぁ、ちゃんと自分で勉強して、やり方を決めてるんだから」
……あぁ、やっぱりダメだ。別に厳しい環境で育ってきたわけじゃ無いのに、直に家族の優しさを感じると、どうしても目頭が熱くなってしまう。
「……ごちそうさま」
食べ終わった食器をシンクに入れて、軽く水につけてから、入浴をする。
「あちゃー、さすがに子ども扱いしすぎたか?」
「凪音ももう高校生なんだから、難しいお年頃よね」
母と父の、そんな会話が、右から左へと流れていった。
早めにお風呂から上がって、また寝るギリギリの時間までギターの練習をする。幾度となく練習を重ねて、指は痛みを通り越して、いよいよ感覚すら無くなってきた。
やればやるほど指がおかしくなって、音の精度も下がっていく。これ以上の練習はやっても意味がない。時間ももう遅いし、今日はやめよう。そう思って、ギターをケースにしまい、大人しく寝ることにした。
翌日、私は朝から図書館に向かった。迷わず音楽コーナーへと向かって、先生に教えてもらった参考書を探す。目当ての商品は思ったよりも早く見つかって、私はそれを手に取った。軽くぱらぱらと流し読みをして、借りる手続きに進む。さっそく家に持って帰り、何度も読み込んでは、頭の中でイメージトレーニングを行った。
できれば実際に弾きたいところだが、この指の痛みでは、弾けるものも弾けない。代わりに、まずは痛みがある程度引くまで、指のトレーニングと、座学で間を保たせようと思った。
ついでに、ここ最近ギター練習であまり手をつけられなかったスマホでの作曲作業も、これを機にやろう。
もちろんギターだけが指の痛みを引き起こすわけではないので、何をしても痛いものは痛い。それでも、患部を重点的に刺激するギターよりは随分マシだ。
しばらくそうやって、治すことに専念していたおかげか、数日経つ頃には痛みもある程度引いて、ギターの練習に戻れるほどになっていた。
そしてまた練習を始めてみるものの、やはり指先に痛みが走る。それでも、別に全くできないというほどではなくて、歯を食いしばりながら、何度も必死に練習を重ねる。
「……絶対、できるようになりたい」
痛みで溢れそうになる涙を、必死に堪えながら、何度も同じコードの練習を続ける。そのうち指に水ぶくれすらできてきて、今まで特に怪我とかもなかった自分の肌が、みるみるうちに変貌を遂げていくことに驚きを覚える。
毎日のように練習を続けていると、いつの間にか、作曲教室の日が迫っていた。
「あの、先生……」
「どうしたの?あら、ギタリストの勲章がたくさん」
「Fコードが難しくて、何度もやってるんですけど、指が痛くなるだけでどうにもならなくて……」
「Fコードはねぇ、難しいよ。最初はみんな苦戦するの。私も弾けるようになるまで大体1ヶ月ぐらいかかったからね」
「何か、コツとかないですか?」
「まずは、きちんと毎日練習すること。もちろん多少の近道はあるけど、結局は楽器に触らなきゃ上達なんてないわ」
先生の先生の言っていることはもっともだ。私も、毎日の練習を怠る気は一切ない。
「あとはそうね……凪音さん、一度、Fコードをやってみせてくれない?」
「え、あ……はい」
先生の指示通り、私はFコードを弾こうとした。案の定、きれいな音は出なかった。
「そうね……多分、ちゃんと弾こうとして過剰に力を入れて押さえてると思うの。そんなに力まなくても、もう少し肩の力を抜いて、弦を弾いてみて」
言われるままに、できる限りリラックスして弾いてみた。まだ未熟な音だけれど、これまでの練習の時に比べたら、かなり音の輪郭がはっきりしてきた。
「そう!まだちょっと力んでるところがあるけど、少しずつ力を抜いて弾けばいいからね」
先生の言葉に頷いて、とりあえず残りの時間はFコードの練習に勤しんだ。私の他にも楽器の練習をしている生徒は数名いたため、別に私のギターの音が特段目立つことはなかった。
家に帰ってからも、ただひたすらに練習を重ねた。力を抜くことを意識しなければいけないのに、そこに集中しすぎて逆に体がこわばってしまう。時々いい音が鳴れば、その度に動画サイトでFコードの音を流して、それと自分の音を聴き比べた。しかし、やはり動画で聴くようなきれいな音とは程遠くて、また練習を繰り返す。
何日も、何週間も、毎日痛みに耐えながら、練習を続けた。そして約2ヶ月が経過して、ようやく、望んだ音が耳に届いた。
「……え、弾け、た?」
あまりにも信じられなかった。もちろん必死にやってきたつもりだったけど、不意打ちすぎて、本当に弾けたか、疑ってしまった。
すぐにスマホを起動して、録音機能をつける。さっきのうまくいった時の指を意識して、もう一度弾いてみる。
きれいな音色が部屋に響いて、徐々に余韻を残しながら空間に溶けていく。
録音機能をとめて、取れた音声を再生し直す。動画投稿サイトに載っているFコードの音と何度も聴き比べて、それが間違いなく成功だということを噛みしめる。
「できた、できた!」
思わずガッツポーズをとる。まるで自分らしくないことは重々承知の上だ。それでも自分の成功が、どうしても嬉しかった。
そんな嬉しさから、今まで張り詰めていた緊張が一気に緩み、一気にこれまでの疲労や、指の痛みが襲ってくる。
「いっつー……」
指は真っ赤に腫れ上がって、腕も筋肉痛でまともに動かせなくなっていた。でも、そんな痛みよりも、今まで苦労していたコードが達成できたことの方が何倍も嬉しかった。
基本のコードはある程度押さえられた。あとは何度もやって完璧にできるようにしつつ、短くても連続したコードを弾いて、指の切り替えをスムーズに行えるようにしたい。
まずはチューリップとか、ちょうちょとかの童謡から始めていく。いきなり三分近くある邦楽とかを弾いても、うまくやれるわけがない。確かに最初から難しいものに挑戦して、一気に成長するのも1つの手ではあるが、まだ基礎ができたばかりでろくに固まってもいない状態で、そんなことをしても逆効果だとしか思えない。
まだ拙くはあるものの、童謡ぐらいの単調な音なら、ある程度形になるぐらいに繋げることはできてきた。
とはいえ、まだ自分がやっている段階は基礎も基礎。ここからきちんと自分の曲に反映されるまでは、もう少し長い道のりだ。それでも構わない。自分がやりたいと決めて、親や先生まで巻き込んで、こうして練習をしているんだ。どんなに長くなろうとも、きちんとやり遂げてみせる。それに、こうやってひとつひとつ達成ができるのなら、モチベもそう簡単に途切れることはないだろう。
とにかく、なるべく早く成長するために、私は毎日ギターを抱えた。そのうち水ぶくれが治って指も硬くなって、ギターを弾くのに痛みを感じにくくなっていた。だんだんとやっていくうちに、コードからコードへの移行もどんどん滑らかになっていって、童謡で始まった練習は、半年経つころにはついに憧れのアーティストの曲へと手を伸ばす段階にまで進んでいた。
まだ演奏中に多少の失敗はあるし、磨けばより良いものにはなるけれど、始めたばかりに比べれば十分きれいなメロディーを奏でられるようになり、自分の中ではかなり満足している。
作曲教室の先生に、その練習の成果を見せた時は、目を輝かせて喜んでくれた。
「すごいわ凪音さん!コツコツ頑張ってきた甲斐があったね!先生嬉しいわ!」
パチパチと拍手までする先生に、心が少しだけむず痒くなる。水ぶくれもすっかり治って、指は硬くなり、あまりギターを弾くのに痛みを感じなくなっていた。ギタリストとは、そうやって成長していくのかと、少しだけわかった気がした。
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