第5話ギターとの出会い
そして、三者面談も終わり、また作曲作業と志望校調査をし続ける日々を過ごしていると、あっという間に夏休みが目の前まで迫ってきていた。
クラス替えをして、メンバーが変わったあとでも、やっぱりクラスメイトはソワソワしていた。どこに行くか、何して遊ぶか、祭りは行くか。そんな賑やかな声が飛び交う教室で、やっぱり私は、ひとりぼっちだった。でも、カバンの中のヘッドフォンの存在が、私に寄り添ってくれるような、安心感をくれた。
見慣れたクラスメイトの反応、見慣れたしおり、見慣れたルール。でも、私の目に映る景色は、今までよりずっと、明るくて鮮やかだった。
帰り道、ヘッドフォンを装着し、好きな音楽をかけながら帰る。ふと、あの日イヤホンを引っ掛けて壊してしまった件の茂みが視界に入る。
あの日、ここでイヤホンを壊したから、私は今ここまで熱中できるものを見つけられた。ここまで真剣に進路を考えられた。そう思うと、たった一年前のことなのに、なんだか何年も前の思い出話みたいに、懐かしい気持ちになる。
「ただいまー」
ぼんやりと思い出を振り返りながら帰宅する。靴を脱いで手を洗うと、足早に自分の部屋に向かう。スマホを起動し、作曲作業を始め、気がつけば夕飯の時間になっていた。一階に降りて、キッチンにいる母の元へと向かう。
「今日の夕飯何ー?」
「今日はハンバーグだよ、お父さんもうすぐ帰ってくるから、テーブル拭いちゃって」
母から渡された台拭きを受け取って、テーブルを軽く拭く。全体を拭き終わり、そこにランチョンマットを敷いて、ハンバーグを乗せたお皿を各々の席の前に置いていく。
ついさっき炊けたご飯をお椀によそっていると、玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
父の声が響き、スーツ姿のまま自室へ向かう足音がする。着替えを済ませた父がダイニングに現れると、三人揃って「いただきます」と手を合わせた。
箸でハンバーグを割ると、肉汁がジュワッと溢れる。玉ねぎが多くて、少し甘い。いつものお母さんのハンバーグだ。しばらく黙々と食べていれば、父が口を開く。
「そういえば、進路の調子はどうだ?」
「夏休みで気になっているところのオープンキャンパスに行くから、それで最終的に志望校決めるつもりだよ」
「そっか、凪音が行きたいって決めたところなら、父さん応援するから、いっぱい考えて決めるんだぞ」
「うん」
「にしても、凪音がこんなにも音楽に熱中するなんてな。ヴァイオリンとか小さい頃にやらせても良かったかもな〜」
「もう、お父さんったら」
笑顔で父と母が会話をする姿を、私はただ静かに見つめていた。私は恵まれた子供なんだなと、しみじみ思う。こんな明るい家族に囲まれて、たくさんの愛情を受け取っているんだなと。でも、その恵まれた環境に生まれていながら、こんなにも根暗に育って、まともに愛も返せない自分に嫌気がさす。この場においても、気の利いた言葉を元気よく返すこともできない。なんだったら、今こうして私の話題で盛り上がっている両親の会話に割り込むことすらできない。言葉を入れるだけの隙間も探せなければ、隙間を見つけても入るか否かで迷ってそのままその隙間が埋まっていく。空いた間にすら入れない意気地無しだから、自分で会話を止めて流れを作るだけの力なんて当たり前にないわけで。
結局この状況において、自分が取れる選択といったら、ただ黙々とご飯を食べることだけだった。
「そうだ、ヴァイオリンはダメでも、ギターならできるだろ!」
「ちょっとお父さん……!」
「今度買いに行こう!な!」
突然話が振られて、一瞬固まる。会話自体は聞いていたから、別に何が起こったかはわかっているけど、あまりにも突然の誘いにびっくりしてしまった。
ギター。実は、少しだけ憧れていたものだ。値段がかなり張るので、あまり自分から言い出すことはしなかったけれど。
「ギター、欲しい。頑張って練習して、作曲に使いたい」
独立する気は毛頭ないし、ほぼ趣味で続けるつもりの作曲如きに、わざわざギターをなんでもない日にねだるのも申し訳なかった。せめてお年玉とか、お小遣いを貯めて自分で買おうと思っていた。でも、父親からの打診もあったことだし、来月ごろには誕生日なのだから、ちょっと前倒しだと思えばいいだろう。
「よーし!じゃあ明日は土曜日だし、楽器屋さんへ行こう!凪音が好きなやつ買ってやるからな!」
「まったく……本当に調子のいい人なんだから」
テンション高く話す父と、それを横目にやや呆れながら話す母。そんな暖かくて明るい食卓で、ハンバーグを口に放り込みながら、私は必死にあることを言う勇気を振り絞っていた。
「……楽しみだな」
ケラケラと笑いながら話す父と、それに対して呆れながらもツッコミをする母の顔が、同時にこちらに向いた。無言の間がすごく気まずい。やっぱり言わなければ良かったな、と必死に言い訳のための口を開こうとすると、頭に温かい感触が伝わる。顔を上げれば、父が笑顔で私の頭を撫でていた。
「そうだな、楽しみだな!」
「明日のためにも今日は早く寝ないとね」
別に、泣くことじゃない。分かりきってたことだ。私のことをここまで愛してくれる両親なら、私の発言を否定なんてするわけがない。そんなのわかってたのに、どうしても目頭がじんと熱くなって、喉がキュ、と絞まる。溢れそうになる涙を必死に堪えて、顔を見られないように俯いてご飯を食べ切る。
「ごちそうさま、私お風呂入ってくる」
パジャマとバスタオルと替えの下着を抱えて、私は足早に洗面所へ向かった。
風呂場で髪と体を洗って、浴槽に浸かるなり、涙がボロボロと溢れてくる。別に悲しいんじゃない。悔しいわけでもない。ただ、真っ向から家族の温かさを受け取って、卑屈な自分がパニックになってしまっただけだ。人肌程度の涙が、風呂の中に溶けていく。どんどん頬を伝う涙を、止めることも、拭うこともせず、ただただ流し続けた。
風呂場に持ち込んだスマホが振動する。母からメッセージが届いたらしい。
『明日はお昼に家出るからね』
通知からそのメッセージに飛んで、適当なスタンプで応えて、近くに放り投げるようにスマホを置く。なんとなく、それ以上画面を見る気にも、適当な音楽を流す気にもならなかった。ただ、この不思議な感情に浸っていたかった。
普段だったら一時間以上の長風呂をするところだけれど、泣き疲れてしまったので三十分であがることにした。髪と体を乾かして、パジャマに着替え、歯を磨いて、寝室に向かう。今日はなんだか忙しい一日だった。でも、どこか晴れやかな気持ちで、眠りにつくことができた。
翌朝、いつも通り六時に起きて、歯を磨き、作曲作業に入る。それから二時間経って、階下から母が「朝ごはんできたよー」と呼んでくる声が聞こえた。
キリのいいところで作業を止めて、階段を降り、ダイニングに向かう。いつもよりも足取りが軽やかなのは、きっとこの後の予定が楽しみで仕方ないからだろう。
朝食を食べながら、どんなギターを買おうか一人想像を膨らませる。色はどうしようか、アコギにしようかエレキギターにしようか。考えるだけで胸が高鳴り、まるでクリスマス前夜のようなワクワク感に包まれていた。
朝食を食べ終え、身支度をすまし、最高の気分で家を出発する。車の中でも鼻歌を歌いながら体を揺らす。多分今が、人生史上一番テンションが高い瞬間だ。
車の窓から楽器屋さんの看板を見つけるなり、どんどん心が高揚していく。駐車場に車を停める時間すら惜しくなるほどに、目の前の楽器屋のドアをくぐるのが待ち遠しくて仕方がない。
車が止まるなりすぐにシートベルトを外して、ドアを開ける。周りに多少気をつけつつも、小躍りしてしまいそうなほどの勢いのこの足取りを、そう簡単に制することはできない。いの一番に楽器屋の自動ドアをくぐり、辺りを見渡す。少し遅れて両親が入店してきたので、三人で店員の元へと向かう。
「あの〜、すみません」
「はい、いらっしゃいませ。如何なさいましたか?」
「あ、今日ギターを買いに来たんですけど、あまり知識がなくて……よければ選ぶのを手伝って欲しいのですが」
「もちろんです!」
対応してくれた店員さんは、優しく笑顔を浮かべて私たちの頼みを快諾して、ギターコーナーへ案内してくれた。壁一面にずらりと並ぶギターの数々。その圧巻の光景に、思わず息をのむ。
「すごい……」
言葉を発した自分ですら聞き取れるか怪しいほどの独り言に対して、心臓だけは喜びに大きな音を響かせていた。
「ご予算や、どんな音を求めていらっしゃいますか?」
店員さんのその質問に、思わず両親に目配せをする。そんな私の視線に気づいた父が、代表して口を開いてくれた。
「最初の一本になるので、あまり高すぎず、それでいて長く使えるものがいいです」
店員さんはうなずき、いくつかのモデルを取り出してくれる。木目が美しいナチュラルカラーの一本、深い赤に輝く一本、そして漆黒に近いダークブルーの一本。それぞれが光を浴び、個性を主張していた。
「よろしければ、試奏してみますか?」
その一言に心臓が跳ねる。店員さんに促されるまま椅子へ腰を下ろし、まずは手渡された木目のギターを抱える。先ほどまで目の前にあったギターが、今、確かに自分の手元にある。その重みを感じたとき、言い表せない感動に包まれた。まだ弦を押さえる指もぎこちないけれど、軽く弾いた音が空気を震わせた瞬間、全身に電流が流れたような、衝撃を感じた。
もうそれだけでも即決してしまいたくなるが、その衝動を抑え、他の2つも弾いてみる。確かにその2つも魅力的だったが、やはり一番最初のあのギターに、運命を感じた気がするので、それにしたい。
「これが、いい」
木目のあのギターを手に取って、両親の目の前に差し出す。恐る恐る母と父の顔を伺ってみると、2人はただただ笑顔で頷いていた。
「凪音が決めたのなら、それにしよう」
壁に並んでいたギターに比べれば幾分か安いものとはいえ、その値段は決して安易に手を出せるものではない。それでも嫌な顔ひとつせずに私の望んだギターを買ってくれる両親がいかに寛大か、しみじみと感じる。そんな両親のためにも、本気でこのギターを大事にしよう。そう心から誓った。
ギターを購入し、近所のファミレスでオムライスを注文し、少し遅めの昼食を食べる。特別気分がいいからか、この日のご飯は特別美味しく感じた。
昼食を食べ終え、そのまま車でまっすぐ家に帰る。家の車庫に車を停車されるなり、ギターを抱えて車内から飛び出す。玄関の前でそのまま立ち止まり、母が鍵を開けてくれるのを笑顔でただ待つ。こんな歳にもなってこんな幼子のような態度をとって恥ずかしくないのかと言われれば、そりゃあ恥ずかしいが、どうしても気持ちが抑えられないのだ。
鍵を開けられるなり、自室へと一直線に走っていく。もちろん靴を揃えることと、手を洗うことは忘れない。
ギターケースを開けて、中身を取り出す。試奏の時に感じた重さが私の体にのしかかった時、本当にこれが私の手元に来たんだと感じて、ますます愛おしくなった。
さっそく店員さんに教えてもらった持ち方をして、一音鳴らしてみる。
軽く指で弾いた弦が、部屋の中に音を放っていく。たった一音だけだったのに、それは耳だけじゃなく、頭からつま先まで私の中に響かせて、震わせた。
今度は少し強めに弾いてみる。さっきよりは荒々しい。でもアコギの性質からか、やっぱり優しい音になる。その優しさに、自然と笑みが溢れた。
「……すごい」
この愛おしさを、この嬉しさを、感動を、具体的に言い表せない。ただただ口から溢れる言葉は、すごい、というたった3文字だけだった。
この瞬間だけは、いつかこのギターの音を含んだ曲に殺されるということなんて、すっかり忘れていた。今日この瞬間だけは、私はただこのギターに出会えたことの喜びを噛みしめていた。
夕食と入浴を済ませて、寝る準備を万端にして、寝る時間になるまでずっとギターを弾いた。ただ聴くばっかりで、楽器の演奏経験なんて、幼稚園の合奏回程度だった私が、ついさっき手に入れた初めてのギターを弾きこなせるわけもない。動画やサイトをひたすら調べて、一音一音をはっきり弾けるように練習を重ねる。
あっという間に時間が経過してしまって、気づけば23時を回っていた。さすがにこれ以上の練習は両親の迷惑になってしまうし、自分の睡眠時間も確保できなくなってしまうから、潔く今日の練習は終わろうと思い、ギターをケースにしまった。
明日は作曲教室があるから、先生に練習方法とかを聞いてみようか。そう自分の中で決めて、明るい気分で眠りについた。
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