最終章
ネロが目を醒ましたとき、室内はまだ薄暗かった。隣にオプシディアンの姿はなく、しんとした静寂がどこまでも漂っている。そっと起き上がると、まだオプシディアンに抱かれた甘い怠さが身体中に残っていた。それなのに彼が傍にいないので、すべてが甘美で残酷な夢だったようにも思える。
オプシディアンはあのあと、ネロを浴室へと運んで後始末をしてくれた。けれどそれだけでは終わらずに、結局そのままもう一度抱かれた。熱っぽい声で呼ばれた名前や、ネロを引き寄せる力強い腕を思い出すと、羞恥が全身に染み渡るようだった。自分の身体がこんな風に、抱かれて悦ぶようにできているなんて信じられなかった。もしかしたら彼は我に返って、少し頭を冷やしに行ったのかもしれない。冷静になって考えたら、男のくせにあんな風に乱れるなど、軽蔑されるに決まっている。
そっと寝台を降りると、床に落ちていたローブを羽織った。ひんやりとした床の上に立つと、そっと執務室の方へと歩いて行く。もしかしたらそこに彼がいるのではないかと願ったが、その部屋にも静寂が蔓延っていた。昼間とは違い廊下へと続く扉は閉じられていたが、この格好でその外へ出る勇気はなかった。扉の両側に控える兵士に、こんな格好を見られるのは御免だ。
執務室の窓からは中庭が見えた。その向こうには巧みに隠されたオプシディアンの邸があるはずだ。雲一つない夜空に昇る月は明るく、室内や庭を照らしていた。そうしてぼんやりと佇んでいるうちに、ゆっくりと扉が開く音がした。入って来たオプシディアンがネロを見て面食らうと、すぐにこちらへと駆け寄ってくる。手に持っていた盆を執務机へと置くと、ネロの身体を軽々と抱き上げた。
「ネロ、足が冷えてしまうぞ」
そう言ってネロを抱き寄せると、慈しむように頬へとくちづけられた。鼓動が甘やかに高鳴って、生きていてよかったと実感した。先程まで勝手に感じていた不安も彼の前では跡形もない。安堵に笑みを零したネロを、オプシディアンが寝台へと運んでくれた。
「どこに行ってたの?」
「ああ、水ときみの着替えを取りに行っていたんだ。こんなにかわいいきみを他人に見せるわけにいかないからな。不安にさせたか?」
「起きたら誰もいなかったから、夢だったのかと思った」
「まさか。あんなにあいしあったのを忘れたわけじゃあないだろう?」
オプシディアンが艶めかしく笑って、ネロを寝台へと押し倒した。はだけた隙間から掌を差し入れられると、撫でられただけで易々と先程までの快楽が思い出される。慌ててその手を押しとどめるネロを彼がおかしそうに笑うので、揶揄されているのだと知れた。流石にもうしない、と彼がネロの隣へ寝転ぶと、そっと身体を抱き寄せられた。
「身体は大丈夫か?随分無理をさせてしまったからな。次はもう少し加減できるように努める」
「また抱いてくれるの?」
「ネロ、きみは俺にあいされている自覚を持つべきだな。それとも、最初で最後だから許してくれたのか?」
そう言うわけではなかったが、前科があるだけに少しだけ後ろめたかった。オプシディアンに想われている自覚は有り余るほどあるけれど、それでも不安な気持ちはこれからも顔を出すだろう。けれど、彼の傍を離れようと思う気持ちは潰えていた。彼の気持ちを思い知った今、離れようと考えるだけでも胸の奥が痛む。小さな声でそうじゃないけれど、と弁明した。そうか、続いていくのか、と思うとつい笑みが零れてしまった。
「ネロ、どうして笑う?」
「ううん、なんでもない。ディルに幻滅されたんじゃないかなって、ちょっと不安だったから、」
「どうして俺が幻滅するんだ」
「だって、その、男なのに抱かれて悦ぶなんて普通じゃないだろ。でも、俺の身体があんな風だって知らなかったんだ。はじめてなのにあんな風に、」
そこから先は恥ずかしくて言葉にできなかった。そんなネロに彼が甘い笑みを零して、ぎゅっと強く抱き締めてくれる。そうして耳元で囁かれた言葉にネロは頬を笑みに崩した。
「きみは俺を喜ばせる天才だな」
◇
エトルから外出の許可を得ることができると、ネロは王都の復興作業を手伝うことにした。大分片付けられたとはいえパンデモニウムによって蹂躙された王都は、特に王宮へと続く大通りの被害が大きかった。幸い被害を受けたのは露店が多く、居住区への被害は少なかった。露天商たちは王宮の兵や騎士たちの手を貸りながら、自分たちの店を元の状態に戻そうと奮闘していた。オプシディアンと共にいたネロのことを憶えていてくれる者たちも多く、皆ネロに気づくと気さくに声を掛けてくれた。オプシディアンの様子を尋ねられることも多く、最初は驚いていた国民たちも、今は彼が国王であったことを受け入れているようだった。
一方カーネリアンは復興要員のひとりとしてギベオンと共に作業に励んでいた。ギベオンはしばらく地下牢に留め置かれていたが、ネロが目を醒ましたことで放免となり、カーネリアンと共に作業に勤しんでいる。ネロは自らに瀕死の重傷を負わせたことを咎めるつもりはなかったし、オプシディアンも同じだった。彼はただ傍にいたヴェガに目を付けられて、いいように使われただけに過ぎない。それをわかっているのに、罪に問うことがどうしてできよう。
「陛下からの求婚を受け入れられたそうですね」
そう声を掛けられて顔を上げると、カーネリアンが柔らかな笑みを浮かべていた。その日ネロは破壊された井戸の再建作業を手伝っていて、今は日陰から作業員たちが新しくレンガを積み直しているところを見守っているところだ。カーネリアンはネロの隣に腰掛けると、作業員たちの方へと目をやった。初めて彼に逢ったときはオプシディアンとよく似ていることに驚いたが、今は髪形を変えたせいか、それほど似ているようにも思えない。きっと、今までは努めてオプシディアンに似せようとしていたのだろう。
「一緒に生きて行こうと思っただけです。それに俺が伴侶にならなかったら、王妃は娶らないとおっしゃったので」
「陛下らしい。陛下はあなたのことをずっと探しておられましたから」
影武者のときのカーネリアンはどこか殺伐としていたが、隣にいる彼にその気配は微塵もなかった。王女の息子であるという立場が認められ王位継承権が与えられたというが、当人にそのつもりはないらしい。
「カーネリアン殿はどうなさるおつもりなのですか?」
「わたしは両親を訪ねるつもりです。生まれてからずっと陛下の影として生きてきたので、これを機に外の世界を知るのもよい経験になるでしょう。旅にはギベオンを連れて行くつもりです。彼の罪を不問にしていただき、ありがとうございました」
「そう決められたのは陛下ですから。俺も怒っていませんし。でも、この国を出て行かれるのですね」
「生まれて初めての自由ですから、少しばかり謳歌しても許されるでしょう。それに、ネロ様がいらっしゃれば陛下の身に危険が及ぶことはないと思いますし。可憐なように見えてあんなにお強いとは驚きました。今やあなたは陛下を救った英雄ですよ」
「それは言い過ぎでは、」
「歴史とは、いいところだけを切り取って作られていく側面があるのです。終わりよければすべてよし、ということです。あなたはこの国を救うためにパンデモニウムに潜入し、結果的に陛下の命とこの国を救ったのです。そう語り継がれていくでしょう」
それでいいのです、とカーネリアンが呆気らかんと笑った。彼はきっとネロがオプシディアンの命を狙っていた過去を後悔していることを慮ってくれたのだろう。その言葉のお陰で、ネロの心の重りは少し軽くなったような気がした。
カーネリアンはしばらくネロと並んで座っていたが、そろそろ行くと言って立ち上がった。なにをしに来たのだろう、と思ったネロに、彼が思い出したようにアステラが探していたと教えてくれた。どうやらその伝言を届けに、わざわざネロを探しに来てくれたらしい。
カーネリアンと別れて、ネロは孤児院へと急いだ。アステラは無事だと伝えられてはいたものの、その姿を見掛けることはなかった。ネロを心配させないように無事を偽っているのでは、と疑いの目でエトルを見たこともあったが、エトルはあくまでもアステラは息災だという姿勢を崩さなかった。だた今は逢える姿ではないから、と曖昧に誤魔化された理由が、彼に逢ってようやくわかった。孤児院の前で子供たちの相手をしていたアステラは、ネロがよく知る彼の姿ではなかったからだ。
「久しぶりだね、ネロ。元気そうでよかった」
そう笑うアステラの声は、ネロが知るものよりも少し高かった。彼はネロよりも十以上年上のはずだが、今は同じくらいの年齢に見える。長く伸ばした髪を一つに編み込んで背に垂らしている姿は、少年のようにも少女のようにも見えた。これはマティスが毎日通い詰めて、口説き落とそうと想う気持ちもわからなくはない。
驚いてなにも言えないネロをアステラが傍の長椅子へと座らせた。一回り縮んだ姿はネロよりも余程華奢で、護ってやらなければと思わせる雰囲気がある。柔らかく微笑みかけられると、胸の辺りがそわそわして落ち着かないような、不思議な気持ちにさせられた。アステラはそんなネロを苦笑って、すぐに逢いに行けなくてごめんねと謝った。
「きみの命を繋ぎ止めようと、思った以上に魔力を使っちゃったみたいでね。気づいたらこの姿になっていたんだ。それで、マティスと師匠がしばらくは外に出ない様にって」
「ふたりの気持ちはよくわかるよ。今のアステラって、なんていうかすごくかわいいもの」
「ネロにそう言われるとなんだかこそばゆいな。マティスも変に照れていて面白いんだよ。この姿の僕を知っているくせにね」
ふふっと柔らかな笑みを零すアステラは、それはそれで楽しそうだった。ひと目惚れした頃の姿の恋人を前にしているマティスの心情は、幾分と複雑だろう。アステラが面白いと言う彼の反応を、ネロも見てみたいなと思う。
「いつか元に戻るの?」
「たぶん、そのうちね。人の命を繋ぎ止める魔法っていうのは初めて使ったからね。どうやら魔力を使い過ぎると若返るらしい。しばらくは大人しくしているように言われちゃったよ」
「アステラって実は凄い魔法使いなんでしょ?」
「僕は落ちこぼれだよ。最初に言わなかった?」
アステラは平然とそう笑って見せたが、彼に命を救われたネロは信じる気にはなれなかった。能ある鷹は爪を隠すと言うように、彼は物凄い力の持ち主であることを隠しているのだろうか。かつてマティスが護らせてくれるために、アステラは強いことをひけらかさないのだと言っていたことを思い出した。そういうと健気なところがかわいいのだと言った、マティスの言葉が今ならわかる気がする。
「アステラ、俺の命を救ってくれてありがとう。アステラに命を救われたのは二度目だね」
「ふふ、ネロは僕たちの大切な子だもの。しあわせになってもらわないと困るよ。陛下ならきみを大切に慈しんでくれるだろう。共に生きる覚悟を決めたんだろ?王妃になるって聴いたよ」
「王妃って柄じゃないけどね。それに男だし、」
「陛下はそんなこと気にしてないよ。それにきみたちがしあわせならそれで充分さ。きみの魂は陛下にあいされてよろこんでいる。僕にはわかるよ」
そう言われるこそばゆさに、ネロはつい笑みを零した。エトルにも言われたが、ネロの魂についた傷は順調に癒えてきているらしい。それはひとえにオプシディアンが一途な想いを向けてくれているからだとネロにはわかる。
不意にアステラが腕を伸ばして、ネロの身体を抱き締めた。そうされると色々な感情が一気に押し寄せてくるようで、ネロも彼の身体にしがみつく。アステラはネロを絶望から救い出し、オプシディアンに巡り合わせてくれた。あの日彼らに助け出されなかったら、ネロは今ここへはいなかっただろう。彼らを裏切ったことを許してもらえたことも含めて、感謝してもしきれなかった。マティスとアステラは幼かったネロにとって、第二の両親と言っても過言ではなかった。
「なんだか、息子を嫁に出す気分だよ。マティスはきっと泣くだろうなぁ」
「アステラ、ディルは俺を選んだことを後悔しないかな?それだけが心配で、」
「大丈夫。きみを泣かせたら僕たちが黙っていないから。それにとっておきの魔法がある」
「とっておき?」
「そう。魔法使いから祝福されたふたりは永遠の幸福を得るんだ。そういう解けない魔法があるんだよ」
「やっぱり、アステラはすごい魔法使いじゃないか」
そう言ったらアステラが少し照れ臭そうに笑った。
王都の復興が佳境を迎える頃、修復を終えた王宮でオプシディアンとネロの結婚式が盛大に行われた。よく晴れた青空の元王門が広く開かれ、多くの国民がふたりの門出を祝った。揃いの衣装を身に付けたふたりは多くの人に見守られながら永遠の愛を誓い、アステラからとっておきの祝福を授かった。
新たな王妃が男であることに戸惑う国民も多かったが、国王の隣に並ぶネロの姿を見て祝福せざるを得なかったと言う。その姿は男であるのを忘れさせるくらいに可憐で美しく、並ぶふたりはたしかな愛で結ばれていることが傍から見てもよくわかった。よくある政略結婚とは裏腹に、微笑み合うふたりからはしあわせそうな雰囲気が漂っていた。
盛大な式典を終えたあと、オプシディアンとネロは再び並んで国民の前に姿を現した。ネロは演説するオプシディアンの横顔を見守りながら、高鳴る鼓動を感じていた。彼の傍にいると、ちゃんとここに心臓があるのだと言うことがわかる。それはオプシディアンも同じだといい。
演説が終わると盛大な拍手と喝采がふたりを祝福した。ネロは不意にオプシディアンに腰を抱き寄せられると、唇を耳元へと寄せられる。背後で見守っていたノクトが、何事かと身を固くしたのがわかった。ネロにしか聴こえないように囁かれた言葉は、新たな王妃の顔にしあわせそうな笑みを作った。
「ネロ、あのときの返事を聴かせてくれ。俺のものになってくれと言っただろう。その返事をまだ聴いていない」
「ふふ、ディルが思っている通りだよ?」
そう言ったネロの唇にオプシディアンの唇が重なった。その唇の間からは、溢れんばかりのいとおしさとしあわせが、今にも零れてしまいそうだった。
蜃気楼の王国 なつきはる。 @haru_0043
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