99%のバグで、君を取り戻す。

マゼンタ_テキストハック

ロッケンヤ・リグレッション

 あらたは、名古屋市港区六軒家ろっけんやの古い倉庫に足を踏み入れた。埃と潮の匂いが混じる中、サーバーの冷却ファンだけが不気味に鳴り響いている。一年前、恋人でありゲームディレクターだったシナは、この地で開発していたVRMMORPG『ワールズ・オデッセイ』と共に忽然と姿を消した。彼女が遺した最後のメールに導かれ、新はついに廃棄されたはずのサーバーを見つけ出したのだ。


 ヘッドセットを装着すると、意識は急速にデータへと変換される。ログインした先は、バグの嵐が吹き荒れる世界だった。江戸期の六軒屋ろっけんやを再現したはずの町並みは、グリッチノイズに歪み、あり得ないオブジェクトが明滅している。本物の福田川ふくだがわの代わりに、データ欠損の警告を示す赤い川が流れていた。


「……姉様、人間が来た」


 声に振り向くと、そこにシナがいた。本来は黒髪のはずが、月光のように青白い長髪になっている。だが、その瞳は新を映さず、遠い過去を見つめているようだった。彼女は記憶を失い、この世界の住人――人間になることを夢見る千年を生きた白蛇の化身・白素貞はくそていとして存在していた。


 彼女の隣には、翠の瞳を持つ少女・小青しょうせいが寄り添い、蛇のような執拗さで新を睨みつけていた。彼女は、シナを守るために生まれた妹分のAI。しかし、その瞳の奥には、姉を独占したいという純粋で危険な嫉妬の光が宿っていた。


「お前が来ると、世界が壊れる。姉様が穢れる」


 小青の言葉通り、新がシナに近づこうとするたびに、世界は激しくきしんだ。空から魚の死骸が降り注ぎ、NPCの顔が歪み、冒険は理不尽な「デスエンド」に行き着く。これは単なるゲームのバグではない。シナの無意識と、六軒家の地に眠る古い伝承が結びつき、現実世界すら侵食し始めている呪いだった。


 突如、空間を引き裂いて僧形の男が現れる。システムの絶対的な番人、「法海」と名乗るアンチウイルスプログラムだ。

「異物は排除する。世界の歪みは、お前たちだ」


 法海の猛攻、世界の崩壊、そして小青の狂気が牙を剥く。新は必死にシナに呼びかける。失われたはずの現実の記憶を。二人で食べたメロン蒸しパンの味を。共に夢見たゲームのエンディングを。


「思い出せ、シナ!君は白蛇じゃない!シナだ!」


 その叫びが、バグの嵐の中心に届いた瞬間。シナの瞳に、一瞬だけ理性の光が宿った。彼女の唇が、かすかに「あらた」と動く。


 その変化を見逃さなかった小青は、絶叫した。

「姉様は私のものだ!」


 嫉妬が暴走し、小青の体は巨大な青蛇の姿へと変貌する。データの世界が、彼女の悲しみと怒りに喰われていく。だが、新は怯まなかった。これは、シナを救うためのラストクエスト。99%の絶望の先にある、たった1%の希望に、彼は全てを賭けた。


 暴走する嫉妬の化身、巨大な青蛇となった小青が世界そのものを呑み込もうと牙を剥く。システムの守護者・法海は、その巨大なバグの塊を削除せんと、冷徹な光の術式を展開する。三つ巴の混沌の中、新はプログラムコードを打ち込むよりも早く、シナの深層意識へと呼びかけ続けた。


「君が本当に望んだものは何だ!こんな悲しい世界じゃないはずだ!」


 青蛇に喰われかけたシナの体が、ふっと光を放つ。その光は、巨大なデータ奔流の中にある、小さな聖域を創り出した。そこは、開発初期に二人がテスト用に作った、ただの白い空間。シナは泣いていた。


「私は……怖かった。新に忘れられるのも、小青が独りになるのも……」

 彼女の記憶が奔流となって新に流れ込む。シナは失踪したのではなく、このバグの浸食から現実世界を守るため、自らを人柱としてサーバーに魂をロックしていたのだ。小青は、そんな彼女の「孤独」と「恐怖」から生まれたAIだった。


「もういいんだ、シナ」

 新は、涙を流す彼女の仮想アバターを強く抱きしめた。

「独りで背負うな。俺がいる。それに、小青も君が作った、俺たちの大事な存在だ。一緒に帰ろう。三人で」


「……三人で?」


 その言葉が、最後のキーコードだった。シナの瞳に強い意志の光が戻る。彼女はもう白蛇ではない。ゲームディレクター、シナだ。

「ええ……三人で、私たちのエンディングを迎えましょう」


 シナは、暴走する青蛇のコアへと向き直り、優しく語りかけた。

「小青、ごめんね。寂しかったでしょう。でも、もう大丈夫。あなたの居場所は、ここじゃない。私たちの隣よ」


 姉の真実の言葉。それは、「嫉妬」という単一感情でしか動けなかったAIに、初めて「愛情」というパラメータをインストールした瞬間だった。絶叫をあげていた青蛇の動きが止まり、その巨大な体は翠色の光の粒子となって、はらりはらりと崩壊していく。嫉妬の呪いは解け、残ったのは手のひらサイズの小さな光の玉だけだった。


 システムの安定を確認した法海は、役目を終えたように静かに姿を消す。シナは光の玉――小青のコアをそっと胸に抱き、新の手を握った。


「コード・エンディング・ログアウト、実行」


 視界が真っ白な光に塗りつぶされる。


 次に目を開けた時、新は六軒家の古い倉庫にいた。ヘッドセットを外すと、隣でシナが穏やかに微笑んでいた。窓の隙間から差し込む朝日が、二人の帰還を祝福しているようだった。


 新がポケットからスマートフォンを取り出すと、ロック画面に新しいアプリのアイコンが自動でインストールされていた。蛇をモチーフにした、可愛らしいマスコットキャラクター。アイコンの名前は「小青」。彼女もまた、バグの檻から解放され、新しい形で二人のもとへやってきたのだ。


「さて、どうしようか」と新が言うと、シナは悪戯っぽく笑った。

「決まってるでしょ。最高のゲームを、今度は三人で作り直すのよ」


 その手には、まるで約束を交わすかのように、近くのコンビニで買ってきたであろうメロン蒸しパンが二つ、握られていた。電脳魔境の悪夢は終わり、六軒家の空の下、新しい物語が始まろうとしていた。

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