第一話 夜明け前の誓い

 澄んだ空気と、緑に囲まれた静かな村。

 川のせせらぎが子守歌となり、子どもたちの笑い声が響いていた。

 戦乱の世の中であっても、この村には戦火が届くことはなく、

 人々は畑を耕し、家畜を育て、穏やかな営みを重ねていた。


 その村に、仲の良い兄弟がいた。

 兄の名はエルディン。若いながらも落ち着きがあり、困っている者がいれば真っ先に手を差し伸べる。

 村人からの信頼も厚く、老人からは「立派な若者だ」と褒められ、子どもたちからは「遊んで!」と慕われていた。

 弟の名はカイル。兄を追いかけては真似をし、失敗しては笑われ、また懲りずに挑戦する毎日だった。


「ねぇ兄さん、いつか一緒に冒険に出られるかな」

「はは、まずは剣を真っ直ぐ振れるようになってからだな」

「うぅ……じゃあ、明日も特訓してね!」

 ――そんなやりとりが、日常の一コマとして繰り返されていた。

 村の人々にとっては微笑ましい兄弟の姿。だが弟にとっては、兄の何気ない言葉や笑顔の一つひとつが、かけがえのない宝物だった。


 だが、運命は思いがけず早く訪れる。


 ある日、各国が結成した討伐隊の選抜のため、軍の使者が村を訪れたのだ。

 村の広場に人々が集まり、誰もが固唾をのんで見守る中、使者の目は迷いなく兄を指し示した。


 ――そして兄は、勇者の一人に選ばれた。


 村は歓声に包まれた。

「我らの村から勇者が生まれた!」と涙を流して喜ぶ老人、

「すごい!すごい!」と憧れの眼差しを向ける子どもたち。

 家族も村人も皆、誇りと祝福の言葉を惜しまなかった。

 けれど、その場にいた幼い弟の胸に去来したのは、誇らしさと同じくらいの寂しさだった。

 大好きな兄が、自分から遠くへ行ってしまう。

 もう隣で笑ってくれる日々は、戻らないかもしれない。


「兄さん、絶対に帰ってきてね?」

 不安を隠しきれずに絞り出した声に、兄は優しく微笑んだ。

「もちろんだ。お前に恥ずかしくない勇者になってみせる」

 その言葉を胸に刻み、弟は小さな拳を強く握った。

 自分も兄のように強くなりたい。兄のように人に慕われたい。


 兄のように、勇者になりたい――。


 その日を境に、弟は憧れを決意に変えることとなる。

 勇者となった兄の背中を追い続けるために。


 それからというもの、弟は一人でも鍛錬を怠らなかった。

 朝は木剣を握り、夜は焚き火の明かりの下で素振りを繰り返す。

 畑仕事の合間にも剣を振り、川で体を鍛え、いつか兄に追いつく日を夢見ていた。

 定期的に村を訪れる使者からの報告で、兄の活躍を耳にするたびに胸が躍った。

「勇者エルディン、北方の砦にて百の魔物を退ける」

「勇者エルディン、その采配により民を救う」

 その名を聞くたび、弟は誇らしく、そして自分もその背に近づきたいと願った。


 ――しかし。


 いつからか兄の名は報告に現れなくなった。

 最初は「きっと別任務だろう」と人々は言い合った。

 だが月日が経つにつれ、不安は村を覆い、やがて「消息不明」という言葉が公然と語られるようになった。

 生きているのか、死んでしまったのか――誰にも分からなかった。


 兄の消息が絶たれてしばらく経った頃、街から帰ってきた商人が妙なことを口にした。

「勇者エルディンが、戦場で魔物の群れを導いていた」と。

 そんな馬鹿な話――弟は笑い飛ばした。

 けれど村の連中は顔を曇らせ、ひそひそと噂を重ね始める。

「勇者に選ばれた者ですら闇に堕ちるのだ。弟もいずれ同じ道を辿るのではないか」

 耳に入るたび、心臓を握り潰されるようだった。

 兄と同じ血を引いている。それは否定できない。

 木剣を振る腕だって兄のように強くはなく、走れば同年代の若者にすぐ追い抜かれる。


 ――あの兄に比べたら、何一つ誇れるものがない。


 悔しさに歯を食いしばりながらも、夜は誰もいない広場で剣を振った。

「兄さんは絶対に裏切ってなんかいない」

 そう繰り返しながら。


 どれほどの時が流れただろうか。

 ある日、討伐隊の生き残りがひどく傷を負いながらも帰還したとの報せが届いた。

 彼らは魔王軍との苛烈な戦場を生き延びた者たち。

 村人も弟も息をのんで彼らの証言を待った。

 だが、その口から語られたのは信じ難い真実だった。


 ――兄は死んだのではない。

 魔王に抗うのではなく、その側に立ったのだ、と。


 弟は信じられなかった。

 あの正義感の強い兄が裏切るなんて――そんなこと、あるはずがないと。


 だが世間は無情だった。

 勇者の裏切りという衝撃はまたたく間に大陸中に広がり、やがて兄の名は讃えられるものから罵りの的へと変わっていった。

 そしてその汚名は、やがて彼らの故郷の村へと及ぶ。


「裏切り者を生んだ村」


「魔に通じる血を宿した一族」


 かつて平和に暮らしていた村は糾弾され、商人は足を運ばなくなり、時に石を投げられることすらあった。

 弟もまた、兄の影として冷たい目を向けられた。


 ――それでも。


 弟は諦めてはいなかった。

 あの兄が、自らの意思で人々を裏切るはずがない。

 必ずなにか訳がある。必ず真実がある。

 そう信じて疑わなかった。

 だからこそ、弟は決意する。

「ならば、この目で確かめに行く」

 村を後にし、見知らぬ世界へ足を踏み出す決意を。


 兄の真実を求めて――そして、自分自身の答えを探すために。


 ***


 そうして更に数年の時が経った。


 俺はもう、あの日の幼い弟じゃない。

 村の誰もが避けるようになった広場で、一人黙々と剣を振り続けた日々。

 人目を忍んで川で鍛錬を重ね、体も心も少しずつ鍛え上げてきた。

 けれど、村を取り巻く空気は変わらない。


「裏切り者の弟」


 そう囁く声が、どこへ行っても背中にまとわりつく。

 悔しかった。だけど、その度に思い出すんだ。

 ――兄さんの笑顔を。


「お前に恥ずかしくない勇者になってみせる」


 あの言葉を、俺はまだ信じている。

 だから、もう決めた。

 ここに留まって陰口に耐えるだけじゃ、真実には辿り着けない。

 兄さんがなぜ姿を消したのか、なぜ魔王の名と共に語られるのか……

 ――この目で確かめに行く。


 夜明け前、村を後にする俺の荷は少ない。

 古びた剣と盾、質素な作りの鎧。そして母が縫ってくれた旅装束。

 それだけで十分だ。剣を握る腕も、歩みを進める足も、もう幼い頃の俺じゃない。


「必ず兄さんを見つける。そして、真実を知る」


 冷たい風が頬を撫でた。

 遠くに見える山脈の向こうに、きっと答えがある。


 俺はそう信じて、一歩を踏み出した。

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