第24話 共鳴的理性のテーゼ
舞台は、静寂に支配された。
エミルの光が世界を肯定し、ルカの闇がその世界を守った後、屋上には完全な均衡が訪れていた。なだれ込んできた保安部隊は、ルカが創り出した不可視の壁の前で、自らの内なる疑心暗鬼に囚われ、凍りついている。眼下の広場に集う群衆も、指導者たちも、ただ息を呑んで、次に起きることを待っていた。全ての物理的な攻撃は、その意味を失ったのだ。
光と闇のショーが終わった今、最後に残されたのは、その現象に「意味」を与える者。
シノンは、そっと、一歩前に出た。
彼女の立つ位置は、エミルとルカのちょうど中間。光と闇、その両方を受け、そして統合する、理性の頂点。その手には、世界の新しい設計図が記されたデータパッドが、静かに握られている。
彼女は、拡声器の類いは何も使わなかった。だが、その声は、共感場理論を応用した微細な精神干渉によって、広場にいる全ての人間――ゲーデル、医療主任、カゲヤマ、そして名もなき職員たち一人一人の脳内に、直接、明瞭に響き渡った。
「これより、最終報告を開始します」
その声は、相変わらず平坦で、温度がなかった。だが、その背後には、揺るぎない真理の重みがあった。それは、弁解でも、演説でもない。一つの学術論文を、世界という名の学会で発表するための、厳粛なプレゼンテーションだった。
「議題は、聖理学院倫理規程第一項、『恋愛=失敗』の定義に関する、科学的妥当性の再検証です」
シノンは、まず眼下のゲーデルへと、そのガラス玉のような瞳を向けた。
「マスター・ゲーデル。貴方は先程、過去の悲劇を例に挙げ、感情の暴走が理性を破壊すると主張した。その観測事実は、私も否定しません。貴方のご友人が経験したであろう惨劇は、記録上、確かに存在します」
その言葉に、ゲーデルは驚愕の表情を浮かべた。まさか、自らのトラウマを、この公開の場で肯定されるとは。
「ですが」とシノンは続けた。その声は、冷たいメスのように、ゲーデルの正義の核心を切り開いていく。
「貴方がたと、私たちの間には、決定的な差異が一つだけある。貴方がたは、その高エネルギー現象を理解することを放棄し、『失敗』という非論理的なラベルを貼ることで、思考を停止させた。それは、神の雷を恐れ、ただ洞窟に隠れる原始的な信仰と何ら変わりません。私たちは、その雷の正体が静電気であることを解明し、それを制御し、利用するための法則を発見したのです」
「貴方がたの失敗の原因は、感情に挑んだことではない。その構造を理解しようとせず、ただ力で封じ込めようとした、その傲慢さにあります。檻に入れた神が、その檻を壊した。ただ、それだけのことです」
完璧な論理による、旧世界の否定。ゲーデルは、反論の言葉を見つけられず、ただ唇を震わせるしかなかった。
シノンは、次に、その視線を自らの隣に立つ二人の少女へと移した。
「この法則を証明するための、二つの生きた証拠が、ここにあります」
「第一に、白羽エミル」
シノンは、そっとエミルに手を差し伸べた。エミルは、その手に導かれるように、一歩前に出る。
「彼女は当初、自己犠牲という名の共依存的関係性の中にありました。それは、他者の負の感情を吸収することで、自らの存在価値を確認するという、負のエネルギー交換です。このモデルは、短期的には安定しているように見えますが、必ず飽和点を迎え、自己の崩壊という結末に至る。これこそが、委員会が恐れてきた『失敗』の一つのパターンです」
「ですが、彼女は自らの内なる『渇望』を認め、他者のためではない、『私のための愛』を宣言した。その瞬間、彼女の精神エネルギーは、自己肯定という核融合によって、他者を消費しない、持続可能な正のエネルギーへと変換された。これが、異なる存在をありのままに受け入れ、世界と調和するための第一原理、『調和(Harmony)』です」
次に、シノンはルカへと向き直った。ルカは、不敵な笑みを浮かべたまま、胸を張っている。
「第二に、黒羽ルカ」
「彼女は当初、他者を挑発し、拒絶することで、自らの孤独な自由を維持していました。これは、あらゆる他者からの干渉を拒絶する、絶対的な自己防衛です。このモデルは、自己を保つ上では有効ですが、他者との間にいかなる関係性も構築できず、結果として孤立と停滞に至る。これもまた、『失敗』の別パターンと言えるでしょう」
「ですが、彼女は『守るべきもの』を見出し、自らの力を、その聖域を外部の脅威から守るために使うことを選択した。その瞬間、彼女の破壊衝動は、自己と他者を健全に区別し、理不尽な侵食を拒絶するための、絶対的な防壁へと昇華された。これが、調和した世界を維持するための第二原理、『境界(Boundary)』です。
シノンの声は、熱を帯びていく。それは、情熱ではない。真理が、その論理的な美しさのすべてを現した瞬間に放たれる、知性の輝きだった。
彼女は、再び、世界へと向き直った。
「結論を述べます。委員会が『恋愛』と呼んできた、あの制御不能な感情の嵐。その正体は、この二つの原理の、不完全な発露に過ぎません」
「『調和』なき『境界』は、孤独な破壊者を生み出す。『境界』なき『調和』は、自己なき共依存者を生み出す。これまでの失敗事例の全ては、このどちらか、あるいは両方の欠如によって引き起こされた、システムエラーなのです」
「ですが」
シノンの声が、一段と高く、そして強くなった。
「もし、この二つの原理が、完璧な均衡を保ち、相互に作用し合ったとしたら? そして、その動的な平衡状態を、第三の視点――すなわち『理性(Reason)』が客観的に観測し、その意味を理解したとしたら?」
彼女は、両腕を広げた。まるで、世界そのものを抱きしめるかのように。
エミルの光と、ルカの闇が、そのシノンの姿を後光のように照らし出す。
「そこに生まれるのは、混沌ではありません。失敗でも、暴走でもない。それは、自己と他者がそれぞれの尊厳を保ったまま、完全に繋がり合い、互いを高め合う、最も安定的で、最も高次な、精神の共鳴状態です」
「私は、この奇跡的な現象に、新しい名前を与えました」
「―――『共鳴的理性(Resonant Reason)』」
その言葉は、新しい時代の産声となって、学院の空に響き渡った。
それは、愛という、これまで最も非合理的で、最も危険だとされてきた現象に、科学の光を当て、その構造と法則性を解き明かした、歴史的な瞬間だった。
「よって、私はここに、聖理学院倫理規程の改訂を要求します」
シノンは、データパッドを高く掲げた。そこには、彼女が書き上げた論文の表題が、力強く表示されている。
「規程第一項、『恋愛=失敗』という定義は、本日、この観測結果をもって、科学的に完全に論破されました。これは、もはや時代遅れの迷信です」
「この非合理な条文を、直ちに削除し、新たにこう書き加えるべきです」
シノンの瞳が、ガラス玉から、未来を見通す水晶玉へと変わった。
そして、彼女は、世界の新しい定義を、高らかに宣言した。
「『愛とは、共鳴的理性である』、と」
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