運命の代償:鈴のとなりに咲く花

舞夢宜人

第1話 座敷童は僕に告白する。


 高校三年生の春。それは、僕たちにとって人生の岐路であり、未来への漠然とした不安と、それに抗うだけの根拠のない希望が入り混じる、特殊な季節だった。県内有数の進学校である県立富岳高校に通う僕、佐倉悠人にとっても、その現実は例外なく重くのしかかっていた。校舎の窓から見える富士山の雄大な姿は、僕たちのちっぽけな悩みを嘲笑うかのように、ただ静かにそこにあるだけだ。


 僕は、この学校においては凡庸な生徒の一人だった。成績は中の上。運動神経も人並みで、友人はいるものの、クラスの中心人物というわけでもない。そんな僕が、彼女、月島鈴と初めてまともに言葉を交わしたのは、桜の花びらがアスファルトを淡いピンク色に染め上げる、そんな日の放課後だった。


 その日の授業が終わり、教室の喧騒から逃れるように廊下に出た。友人である野村健太との他愛もない会話もそこそこに、僕は一人、昇降口へと向かう。夕日に照らされた廊下は、昼間の活気が嘘のように静まり返っていた。自分の靴箱を探していると、不意に背後から声をかけられた。


「佐倉君」


 その声は、鈴虫の鳴き声のように涼やかで、けれどどこか芯の強さを感じさせるものだった。振り返ると、そこに立っていたのは月島鈴だった。彼女は、僕と同じクラスの女子生徒。明るい茶色のショートカットが特徴的で、整った顔立ちにはボーイッシュな雰囲気が漂っている。しかし、その瞳の奥には、いつも何かを見据えているような、強い意志の光が宿っていた。


 彼女は、僕とは対照的な存在だった。常に学年トップクラスの成績を維持し、運動神経も抜群。中学時代はテニスで県大会の上位に名を連ねたこともあると聞く。男女問わず人気があり、彼女の周りにはいつも人が集まっていた。そんな彼女が、なぜ僕に。僕たちの接点といえば、授業で数回、同じ班になったことがある程度だ。その時も、彼女はリーダーシップを発揮し、僕はその他大勢の一人として、彼女の指示に従っていたに過ぎない。


「月島さん。どうしたの、何か用かな」


 僕は努めて平静を装いながら尋ねた。心臓が、嫌な音を立てて高鳴るのを感じる。彼女の真剣な眼差しが、僕の心を見透かしているようで、居心地が悪かった。彼女は、僕の問いには答えず、ただじっと僕の目を見つめていた。その瞳の奥に、一瞬、深い影がよぎったのを、僕は見逃さなかった。それは、まるで水底に沈んだ石のように、静かで、重い影だった。


「少し、話がしたいの。二人きりで」


 彼女の言葉に、僕は息を呑んだ。周囲にはまだちらほらと生徒が残っている。その視線が、僕たち二人に突き刺さるのを感じた。特に、僕に向けられる視線には、好奇心と、わずかな嫉妬の色が混じっているように思えた。


 僕たちは、校舎裏の、今はもう使われていないテニスコートのフェンスの前に立っていた。夕日が金網を赤く染め、僕たちの影を長く地面に伸ばしている。沈黙が、重くのしかかる。先に口を開いたのは、彼女の方だった。


「私、佐倉君のことが好きです」


 その言葉は、あまりにもストレートで、僕の思考を完全に停止させた。驚きのあまり、僕は何も言えずに、ただ彼女の顔を見つめることしかできなかった。月島鈴が、僕を? なぜ? どうして? 疑問符が、頭の中を埋め尽くす。


「君と一緒にいると、しあわせになれる道が見える気がするの」


 彼女は続けた。その言葉は、まるで予言のように、僕の心に深く突き刺さった。彼女の瞳は、真っ直ぐに僕を射抜いている。そこに嘘や冗談の色は見当たらない。あるのは、未来を見据えるかのような、強い決意だけだった。


 僕は、その言葉に運命を感じずにはいられなかった。僕のような平凡な男が、彼女のような特別な存在に選ばれた。それは、奇跡以外の何物でもない。彼女の言葉が、僕の心に宿る漠然とした不安を、確固たる希望へと変えていく。彼女となら、どんな困難も乗り越えられる。そんな万能感に似た感情が、胸の奥から湧き上がってきた。


「僕で、よければ」


 僕がそう答えると、彼女は初めて、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、僕が今まで見たどんな景色よりも美しく、僕の心を幸福感で満たした。しかし、その笑顔の裏で、彼女の呼吸が一瞬だけ、ごくわずかに乱れたのを、僕はまだ知らなかった。それは、愛する人と結ばれる喜びと、彼を運命の渦に巻き込んでしまうことへの、静かな葛藤の息遣いだった。


 こうして、僕と月島鈴の交際は始まった。そして、その日から、僕の人生は奇跡的な幸運に満たされ始めることになる。


 鈴と付き合い始めてから、僕の世界は一変した。これまで灰色に見えていた日常が、まるで色彩を取り戻したかのように輝き始めたのだ。彼女の存在は、僕の生活の全てを、良い方向へと導いてくれているように思えた。


 その最も顕著な例が、学業成績の急上昇だった。僕は元々、勉強が苦手というわけではなかった。しかし、この進学校においては、努力だけでは越えられない壁が存在することも事実だった。特に、応用力が試される問題や、発想の転換が求められる難問に対して、僕はいつもあと一歩のところで足踏みしていた。


 しかし、鈴と付き合い始めてから、僕の頭脳はまるで覚醒したかのように冴え渡った。これまで理解できなかった数式が、パズルのピースがはまるように、すらすらと解ける。歴史の年号や英単語が、面白いように頭に入ってくる。それは、もはや努力の結果とは呼べない、奇跡的な現象だった。


 放課後、僕たちは図書室の片隅で、二人だけの勉強会を開くのが習慣になっていた。隣に座る彼女の体温を感じながら、同じ目標に向かって机に向かう時間は、僕にとって至福のひとときだった。彼女の柔らかな髪の香りが、僕の集中力を最大限に高めてくれる。時折、触れ合う指先に、心臓が大きく跳ねるのを感じながら、僕は目の前の問題に没頭した。


 そして、交際後初めての定期テストで、その奇跡は現実のものとなった。僕は、これまでの自己最高記録を大幅に更新し、学年でも上位に食い込む成績を収めたのだ。特に、最後まで解けずに悩んでいた数学の難問が、試験開始の合図と共に、まるで天啓のように解法が閃いた時の高揚感は、今でも忘れられない。


 僕の成績が上がるにつれて、鈴は心から喜んでくれた。彼女の笑顔を見るたびに、僕はもっと頑張ろうと、固く決意を新たにする。この幸福な関係が、永遠に続くようにと、心の底から願っていた。僕はまだ、この幸運が、決して無償のものではないということを、知る由もなかったのだ。

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