あの日のピッチと、今のドック
マゼンタ_テキストハック
潮騒のハーフタイム
溶接の閃光が、巨大な船殻の闇を青白く照らし出す。坂本健太は火花散るヘルメットの奥で、かつて浴びたカクテル光線を思い出していた。芝の匂い、アドレナリンが沸騰する感覚、そして、たった二年間だけ存在したあの大会の記憶。
健太は長崎県西海市の大島で生まれ育った。炭鉱の煙が空を覆っていた時代は遠くなり、今では島を支えるのはこの大島造船所だ。健太もまた、プロサッカー選手への夢に破れ、このドックで十数年、鉄と向き合っている。
「サカモトさん、お疲れ様です」
昼休み、休憩所で缶コーヒーを開けると、隣に座った中国人研修生の
「僕の故郷は、雲南省の
その響きに、健太の心臓が不意に跳ねた。きょくせいふ――。なぜだ、聞いたことがある。脳裏の古い引き出しが、錆びた音を立てて開こうとしていた。
その夜、健太は押し入れの奥から古いアルバムを引っ張り出した。ページをめくると、色褪せた写真の中に、まだ細身だった頃の自分がいた。1990年、Jリーグ発足前夜の熱狂を凝縮した「コニカカップ」の決勝トーナメントだった。
一枚の写真の裏に、当時の監督の走り書きが残っていた。
『曲靖府での敗戦を忘れるな』
そうだ、思い出した。バルセロナ五輪を目指す代表チームの強化試合で、俺たちは中国のユース選抜と戦い、惨敗した。その遠征先が雲南省。監督は、かつてその地が「曲靖府」と呼ばれていたこと、歴史の中で幾度も栄枯盛衰を繰り返した場所だと語り、俺たちの浮ついた心を戒めたのだ。あの敗北が、健太のサッカー人生に影を落とし始めた最初の出来事だった。
「親父、何見てんの?」
息子の翔太が、リビングに入ってきた。高校でサッカーをしているが、最近は進路のことで口数が少ない。
「昔の写真だよ。父さんもサッカーやってたんだ」
「知ってるよ。でも、昔の話だろ」
その言葉が、健太の胸に刺さる。そうだ、すべては過去の話だ。クジラ漁で栄え、炭鉱で沸き、そして閉山したこの島のように。俺のサッカーも、コニカカップという短命な大会と共に終わった。
翌日、健太は翔太を練習試合の会場まで車で送っていた。大島大橋を渡りながら、ポツリと語り始めた。
「あの頃、俺たちは必死だった。プロリーグが出来る。オリンピックもある。未来が輝いて見えた。でもな、勝負の世界は厳しい。勝つ者もいれば、負ける者もいる」
サドンデス方式のPK戦で、仲間が外した一本のシュート。試合が終わった瞬間の静寂。健太は、勝つことだけでなく、負けることの意味も翔太に伝えたかった。
「父さんは、ピッチを降りた。そして今、この島のドックで世界一の船を造ってる。ここも、俺の戦う場所だ。負けたからって、人生が終わるわけじゃねえ」
車はグラウンドに着いた。翔太は何も言わず、しかし、真っ直ぐな目で父を見つめ、頷いた。彼の背中が、チームメイトの輪の中に消えていく。
健太は車を停め、しばらくその光景を眺めていた。潮騒が、まるで遠い日の歓声のように聞こえていた。人生という長い試合の、今はまだハーフタイム。後半戦は、これからだ。健太は静かにアクセルを踏み、再び橋を渡って、自らの戦場であるドックへと戻っていった。
あの日のピッチと、今のドック マゼンタ_テキストハック @mazenta
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