第5話 ようこそ、毒婦が仕掛ける断罪劇へ!

 薔薇庭園でクラリスと話してから一週間後。


 今夜もヴァルデュア王国の王都では、豪奢な夜会が開かれている。

 主催はカーヴェイン子爵家。すなわち、フェルド卿の家である。


「見て。次期子爵のフェルド卿と、婚約者のクラリス嬢よ。本当にお似合いの二人ね」

「今夜の宴もドローム男爵家が援助しているのでしょう? カーヴェイン子爵家は安泰ね。こんなに素晴らしい夜会を開けるようになったのだもの」


 フェルドとクラリスは主催者の家族とその婚約者として、カーヴェイン子爵とその夫人の傍で挨拶を受けている。

 美しく繊細なレースで痣を隠すクラリスの瞳には、微かな希望の光が灯っていた。

 一方でフェルドの目には濁った欲が滲み、視線は絶えず広間の中を彷徨っている。


 フェルドが探しているのは、蠱惑的な曲線を持つグロリオサ夫人だ。

 誘惑に抗うことすらしなかったフェルドは、もう、夫人の虜。

 夫人の登場を今か今かと待ち望み——それはすぐに叶った。

 

 燃えるように真っ赤なドレスの裾が、見るものすべてを魅了するかのように揺れている。

 傍には、先週、夫人が堕としたアラン卿が恋する紳士の目をして寄り添っていた。


 途端に、広間の空気が凍りつく。

 皆、思い出したのだ。

 今宵の宴が、カーヴェイン家が開いたものだということに。

 そのカーヴェイン家には結婚間近な子息がいて、確か、毒婦に誘惑されていたんじゃないか——と。


 誰もが緊張して、ごくりと唾を呑み込んだ。

 夫人がもたらす新たな恋の醜態が、間近で見られるかもしれない、と。

 空気を読めずに浮かれているのは、夫人に寄り添うアランと……嫉妬に焦がれたフェルドだけ。


「グロリオサ夫人! 来てくださったのですね!」


 フェルドが婚約者であるクラリスを突き放し、夫人に駆け寄った。

 呼び止めるクラリスの声など、聞こえていないかのよう。

 とろんと蕩けた目で夫人の手を取り、アランを挑発するようにその甲に口付ける。

 手袋越しとはいえ、夫人の目元が嫌悪でひくりと僅かに跳ねた。


 ——いけない。仕事をしなければ。


 夫人はすぐに華やかな笑みで嫌悪感を上書きして、魅惑的な黒子で飾られた唇を開く。


「今宵はお招きいただきありがとう存じます、フェルド卿。……あら、清楚可憐な薔薇は……もうよろしくて? それとも……あなたの棘で、わたくしを楽しませてくれるのかしら?」


 誘うようにフェルドを見つめながら、夫人が甘く告げた。

 ちらり、と。クラリスへ視線を走らせると、彼女はなにかを決意したような強い眼差しで、夫人に向かって小さく頷く。


 それを見て、夫人の唇が持ち上がった。

 美しい毒花が咲くように綻ぶ笑顔が、フェルドの頬を赤く染める。


「フェルド卿……いかが?」


 夫人はそっとフェルドの手に指を這わせてから、じりじりと長い指を袖口まで忍ばせた。

 くるり、と手首を撫でてあげると、フェルドの身体がビクリと跳ねる。


「……っ、ええ、ええ! 勿論、喜んで。夫人に奉仕させていただきたく——」

「本当に? 本当にわたくしに奉仕してくださるの? でも、どうして? あなたには愛を誓った婚約者が……」

「彼女への愛など! 真実の愛ではありません!」


 フェルドの叫びが、広間を駆け抜けた。

 あちこちで息を呑む音が聞こえる。夫人にまつわる噂が、新しく囁かれる声がする。

 フェルドの後ろには、唖然とした表情で息子を見つめるカーヴェイン子爵家の面々と、義理の父になるはずのドローム男爵の姿が。

 けれど、欲望の忠実なる僕と化してしまったフェルドは気づかない。


「僕の愛は、誓うべき愛は……グロリオサ夫人、あなたのものです!」

「ふふ。殿方は皆、誓いの言葉を使うのがお好きなのね。けれど——誓いが二度あったとして、そのどちらが偽りになるのかしら?」

「あなたへの愛は、偽りではない!」


 フェルドは鼻息荒く、言い切った。


 ——ありがとう、その言葉が聞きたかったの。


 夫人は、フェルドの宣言が嬉しそうに見えるように、口元に手を当てて瞳を潤ませた。

 一方で、アランの顔が青褪める。フェルドの言動に思い当たる節でもあったのか。目が醒めたらしいアランが、強張った顔で夫人を見つめている。


 夫人の胸の内は、渇いて凪いだまま。

 なにも響かない心で、フェルドを熱く見つめているフリを続ける。


「——では、どうすればいいのか……わかりますわね?」

「わかりますとも! ……クラリス・ドローム男爵令嬢、君との婚約は破棄する!」

「……っ!」


 突然、注目を一身に受けたクラリスの目が、大きく見開かれた。

 唇を噛み締め、驚きで叫び出さないように堪えている。

 それでも、クラリスはすぐに冷静さを取り戻した。

 す、と一歩前へ出て、理知的な瞳でフェルドを見つめる。


「……私に誓った愛は、嘘だったのですね、フェルド卿」


 クラリスのか細い声が、静まり返った広間に心地よく響いた。

 けれど、その声を良しとしない者がひとり。


「お前が……お前が淑女らしく振る舞わなかったからだ! 女のくせに、我が子爵家の事業に口出ししやがって!」


 夫人に愛を乞うていた時とは打って変わって、目を吊り上げたフェルドがクラリスを怒鳴りつける。

 フェルドはクラリスを罵倒するだけに留まらず、感情の赴くままに彼女に掴み掛かり、何度も打ち据えた。

 その姿が、クラリスを叩き慣れている者の手付きだったから。


 あまりの酷さに淑女たちから「きゃあ!」と。非難めいた悲鳴が上がり出す。

 その声を皮切りに、クラリスへの同情とフェルドを咎める囁きが広間に満ちてゆく。

 フェルドの凶行を止めようと、ドローム男爵とカーヴェイン子爵が駆けようとする——のを、夫人が鋭い視線で止めた。


「フェルド卿」


 グロリオサ夫人の凛々しい声で、ざわめきが一瞬にして静寂へと変わる。

 錆びついたネジのように、ぎぎぎ、と首を回して夫人を見つめるフェルドの目には、己の醜態を恥じる色はなく、ただクラリスへの憎しみしかなかった。

 だから夫人は、遠慮なく微笑んだ。

 空っぽの笑みでフェルドの膝を折り、項垂れる彼と野次馬の貴族たちに向けて言葉を投げかける。


「レディを打ち据え、声を荒げる。そのような振る舞いを『愛』だと許す国が、どこにありまして?」


 夫人の問いかけは、フェルドを除く貴族達の心をひとつにまとめた。

「恥を知れ!」と貴族達が口々に叫び出す。

 すなわち——否、と。

 そんなものは愛でなく恥ずべき行いだ、と。


「エドリック陛下はそのような『愛』など、許しませんわ」


 と。国王陛下の寵姫の言葉の後押しもあったのだろう。

 震えながら立ち上がったクラリスが、打たれて赤く腫れ上がった顔を晒し、勇敢な宣言を果たした。


「フェルド・カーヴェイン卿。私、クラリス・ドロームは……あなたの申し出を受け入れ、婚約を破棄いたします」




 王命を遂行したグロリオサ夫人は、クラリスの勇気ある宣言で沸く夜会を静かに後にした。


 その傍らにアランの姿はない。

 フェルドの失態を目の当たりにし、自分の言動と照らし合わせて目が醒めたのだ。

 きっと今ごろ、謝罪のためにライラ嬢を訪ねているところだろう。


 ——謝ったところで、許されるわけがないのにね。


 王都の冷たい夜風が、夫人の身体と心を撫でてゆく。

 はじめから熱を持たないそれが、ますます冷えて重しになってゆくのを感じた。


「……ダリウス、愛しいひと。必ずあなたを生かしてみせる」


 髪留めが風で緩んだか。はらり、と解けた長い髪が夜風に遊ぶ。

 夫人の——ノエラの熱のこもった祈りを、王都の風が攫っていった。



【完】



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国王陛下の寵姫ですが、別れさせ屋をさせられています! 七緒ナナオ @nanaonanao

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