第4話 麗糸の下の愛の証
フェルド卿を誘惑した宴の翌日。
グロリオサ夫人はドローム男爵邸を訪れていた。
夫人の手には、小さなメッセージカード。
そこに記されていたのは——
『本日、午後2時。ドローム男爵邸、薔薇庭園にてお待ちしております』
たった一行。けれど、儚く乱れた文字の震えが、すべてを物語っている。
——毎回、これだけは慣れないわね。
夫人はそっとため息を吐くと、薔薇庭園の門をくぐった。
グロリオサ夫人の仕事は、陛下の命により、恋人達の仲を引き裂く仕事だ。
持って生まれた美貌と肉体を使い、男性側に接近する。
身体だけは、決して許さない。
代わりに、言葉と仕草で翻弄する。
そうすると、決まって女性側からご招待されるのだ。
例えば、今日のように。
「……グロリオサ夫人、なぜ私の婚約者を奪おうとするのです。あなたほどの方が、わざわざフェルド卿などを誘惑するなんて」
美しく咲き誇る薔薇に囲まれたクラリスが、庭園の奥で夫人を待っていた。
すらりと芯の通った背筋に毅然とした表情。
昨夜の夜会とはまるで別人のよう。
けれど、首元から足首まで徹底的にレースや絹で肌を隠したドレスだけは、同じだ。
夫人は、すぅ、と目を細めて微笑んだ。
「その婚約者から与えられる『愛』は、本物かしら?」
真夜中に浮かぶ細い三日月のような笑みで、クラリスを見つめる。
よく晴れた初夏の午後だというのに、一瞬にして夜の帷が落ちたかのよう。
クラリスは思い当たる節があったのか、青褪めた顔で反論した。
「彼は……私を愛してくれています! ……情熱的な愛で、私に証を下さるのです」
「レディが夜会で流行りのドレスを着れないほどの苛烈さで?」
「……っ! どうして、それを……!」
クラリスの瞳が、ぐらりと揺れた。
最近、夜会で流行しているのは、グロリオサ夫人が来ていたような露出度の高いドレスだ。
それを下品にさせずに着こなすこと。それが、貴族令嬢や夫人達の間で流行っている。
けれどクラリスは、違う。
肌を露出することを避け、覆い隠している。
夫人は静かに前へ踏み出した。
さく、と芝を踏み締める音が心地良い。
クラリスの前に歩み寄り、レースで覆われた彼女の腕をそっと撫でて——掴む。
「……っあ、痛!」
「わたくしの目は、誤魔化せませんわ。……ねぇ、怖かったでしょう?」
優しく、甘く。
美しいレースで飾られた華奢な腕には、青や黄色の痣が浮かんでいた。
夫人が柔らかな視線でクラリスを見つめると、彼女の目頭からじわりと涙が染み出してくる。
「……はい。とても、とても怖かった。誰にも……誰にも、相談できなくて……」
はらり、と頬を伝う涙を隠すように、夫人はクラリスを抱きしめた。
「わたくし、何人もの迷える乙女を解放してきましたの。あなた程の才女が、縮こまって声も上げられないなんて……冗談じゃありませんわ」
「グロリオサ夫人……でも、でもっ! フェルド卿は私を愛しているから、と! だから私を従順で模範的な淑女に躾けるのだ、と……」
「愛は支配ではないわ、クラリス」
そう囁いた夫人の髪と薔薇の花弁を、一陣の風がさらって吹き抜ける。
「愛は、相手を尊重するものよ。……たとえ、それが自分を傷つけるものだとしても」
そう告げたグロリオサ夫人の胸の内には、愛しいダリウスの面影が疼いている。
かつて救えなかった恋が、夫人の唇を衝動的に動かしていた。
「あなたを傷つける男に、あなたの未来を委ねる必要はない」
はっ、と。クラリスが息を呑む音が聞こえた。
ぶるぶると震える腕が夫人の背中に回り、縋るように指先に力がこもる。
「……っ、夫人……どうか私を、助けてください」
「彼の本性を、わたくしに教えてちょうだい。真実を知る勇気は、あなたの中にある」
「フェルド卿は……私を罵り、腕を強く掴んで、それから……。でも、いつか彼は変わると信じたかった!」
クラリスは嗚咽を漏らし、フェルドの罪を告白する。
「お父様とお母様のように、お互いに支え合いたかった! カーヴェイン子爵家の財政を立て直し、領民に誇れる仕事をしたかった!」
ぼろぼろとこぼれ落ちる涙が、夫人の肩を濡らしてゆく。
「……でも、フェルド卿にはそんな意志はありません。領民を救いたいなんて気持ち、最初から」
こんなにも誇り高き令嬢を、あの男は踏みにじったのだ。
グロリオサ夫人の冷えた心に炎が灯る。ダリウスを想うときの暖かさとはまた別の炎が、胸に満ちてゆく。
「あなたは自由になるべきよ。わたくしがその道を開くわ」
フェルド卿を陥れることで、エドリック陛下に復讐しているのかもしれない。
それでもいい、と。ノエラ・グロリオサは思う。
身を結ばない復讐だとしても、ひとりの令嬢が救われることに違いないのだから。
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