第3話 毒婦の甘い誘惑

 ——クラリス・ドローム男爵令嬢とフェルド・カーヴェイン子爵子息の婚約を破棄させよ。


 たったそれだけの命令と情報を与えられたグロリオサ夫人——ノエラは、フェルド卿とクラリス嬢が揃って出席するという夜会に足を運んだ。


「……はかったかのような夜会だわ。きっとこの宴も、陛下の掌の上」


 それでもノエラが夜会に行かない、という選択肢はない。

 エドリックの命令を無視することも、当然ない。


 王国第三騎士団所属ダリウス・グレイヴナー卿の命が、エドリックに握られているから。


 もしノエラがエドリックの命令に背けば、ダリウスはすぐさま前線に送られ、命を落とすことだろう。


 ——ダリウス、どうかご無事で。あなたの命は、わたくしがお守りいたします。


 ノエラは切なさに目を閉じ、華奢な手をきつく握りしめた。

 そうして、辺境に飛ばされたダリウスを恋しく想う。


 愛しいひと、わたくしのあなた。

 今はふみを交わすだけで会うことはできないけれど、いつか必ず——。


 目を開けたノエラの顔に、恋する乙女の清らかさはない。

 身体は清いままなのに、心だけが穢れてゆく。

 ノエラはヴァルデュア王国の毒婦の仮面を被り、夜会への扉を潜る。




 華やかな夜会だった。

 眩いばかりのシャンデリア、惜しみなく置かれた燭台。揺れる灯りを反射して、ますます輝くクリスタルの数々。

 どれほど財を尽くしたのか。噂では、この夜会を主催する伯爵家にはドローム男爵家の後援があったという。


 ——なるほど。陛下はドローム男爵家の財力を、政に取り込みたいのね。


 ノエラ——グロリオサ夫人は、妖艶に微笑みながら広間を見渡す。

 財界の中心的な人物や、国政に影響を与えるほどの商家の娘たちがちらほら。

 彼らの中心にいるのが——ドローム男爵だった。


 ドローム男爵は立派な顎髭を撫でながら、貴族や商家たちと談笑している。

 もしかしたらエドリックは、この夜会に出席している彼らを丸ごと取り込みたいのかもしれない。


 ——我が王は、強欲でおられるから。


 次にグロリオサ夫人が探したのは、今回のターゲットであるフェルド卿だ。

 フェルドは、すぐに見つかった。

 ドローム男爵が娘可愛さに、時折、視線を彷徨わせ、クラリス嬢を探していたから。

 フェルドは傍に、自信がなさそうに俯くクラリス嬢を従えて、談話スペースで友人達と話していた。

 夫人は迷わず、フェルドの元へと向かう。


「こんな華やかな夜なのに、もう休んでおられるの?」


 夫人はフェルドとクラリスの仲を引き裂くように、二人の間に遠慮なく腰を下ろす。

 追いやられたのは、露出の少ない地味なドレスを着たクラリスだ。

 大胆に肩を露出したドレスを纏う夫人の素肌が、フェルドに触れる。

 真っ赤に咲き誇るドレスの裾が、フェルドの脚にまとわりついた。


「あ、あなたは……グロリオサ夫人!?」

「フェルド卿、なんて素敵な方。社交界でクラリス嬢の噂が流れているのはご存知?」


 赤く染まるウブな耳元で、夫人はとろけるような甘い声で囁いた。——隣のクラリスには聞こえないように、唇を近づけて。

 ごくり、と上下するフェルドの喉元を冷ややかに見ながら、夫人の白く滑らかな指先がフェルドの胸に触れる。


 クラリスの噂が社交界に流れているのは、事実だ。

 ドローム男爵家が栄えたのは、ひとえにクラリスの手腕によるものだ、と。

 彼女が財政難のカーヴェイン子爵家に嫁げば、子爵家も盛り返すだろう、と。

 どれも皆、彼女を褒め称える噂ばかり。


「彼女……本当にあなたに相応しいレディなのかしら」


 夫人がフェルドの思考を誘導するように、妖艶に目を細める。

 刹那の欲に溺れたフェルドは思惑通り、夫人の言葉を悪い方に受け取った。

 ……自分の都合のいい方に。


「それは……あなたこそが僕に相応しい……と?」


 フェルドの問いかけに、夫人は言葉を返さなかった。

 代わりに誘うような眼差しで、ふっくらとした艶やかな唇の口角を上げる。

 フェルドが息を呑む音が聞こえる。彼の手が、夫人の細い腰に伸びた。

 けれど、夫人は素早く扇子を取り出してフェルドの指をピシャリと叩く。


「焦らないで、フェルド卿。愛は、常に試されるものですわ」


 グロリオサ夫人は扇子の先でフェルドの首筋から顎までなぞると、にこりと笑った。

 そうして、目の前で婚約者が夫人に色目を使っている様に抗議することもできず、青褪めたまま震えるクラリスを置き去りにして、夫人は静かに踵を返す。


 夜会を盛り上げる演奏は、まだ続いていた。

 けれど、グロリオサ夫人の耳にも心にも、なにも響くことはなかった。



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