第2話

第2話 名を与えるという仕事


 部屋の隅で、黒い影がすわっている。

 昨日、廃村の井戸から引き上げ、封じ、背後へ入れたやつ。いまは私の部屋の空気の裏側にいて、見ようと思えば見える、触ろうと思えば触れる。節の数が多い人形の形。肘や膝の場所が普通ではない。肩の後ろにも節が生えて、関節が指のように折れ曲がる。不気味だが、扱い方はもうわかる。


「……ウヒヒ。よく来たね。あとは、名前」


 私は机に座り、文箱から札を出す。札は白地で厚い。墨は冷たく、筆は乾きすぎていない。

 霊は、名前で霊力が変わる。ただ呼ぶだけではなく、与える名で系統を束ね、行き先を決める。あわない名前をつければ、力は落ちる。有名な名で、筋が通れば、上がる。


 新入りは、人形の出だ。人間に捨てられ、それから心霊スポット巡りで撒き散らされた邪気を吸い続け、積もった恨みが形になった。

 人間は、怖いものが好きで、怖がりに行く。そこで怯えて、また邪気を置いていく。廃村、廃ホテル、トンネル、コンクリの祠。空き缶と同じように怯えを捨てていく。

 この影は、それを吸って大きくなった。二メートルを越える。節は増え、糸みたいな動きで人に絡み、子供が玩具を乱暴に壊すみたいに、骨を曲げ、殺す。

 力の根は付喪神。使い道は正直少ない。器用ではないし、言葉は持たない。けれど、実体化ができる。そこがいい。盾、重し、囮、押さえ込み。節が多いなら、捕縛に使える。


「人形なら、名は……」


 私は鼻で息を吸って、笑う。小さく、喉ではなく頬で。


「……メリーさん。ウヒヒ」


 電話怪談で有名。人形の名として、日本でも世界でもそれなりに知れ渡っている。意味は簡単で覚えやすい。恐怖の紐がすでに世間に張られている。そこへ結ぶだけ。

 私は出雲文字で、札にメリーさんとしたためる。筆運びはゆっくり。最後の撥ねを細くして、息を止める。

 立ち上がって、影の額の位置へ札を掲げる。額の形はない。でも額として効く場所はわかる。そこへ貼る仕草をした。

 札は吸い込まれるように消え、影の輪郭が一段濃くなった。室内の温度が一度、下がって戻る。名が入った。回路がつながった。


「……ウヒッ。かなり良くなった。メリーさん、座って」


 影は背を折り、関節を二つ足して座る。命令は通る。返事はしない。返事は求めない。


 壁際、カバンの上では、ハチ公が鼻先だけ出して匂いを測っている。嫉妬はしない。ハチ公は匂いの仕事にしか興味がない。

 机の後ろの空気には、スサノオの刀身が立てかけてある。抜けば音が鳴る。抜かない。ここは家。壁は薄い。

 床の下層には、アラハバキの名が沈んでいる。祟り神の格。私の背の一番奥を支える存在。他の霊を従える力は、ここから来る。


 アラハバキとの縁は、家系の話になる。

 私の母方の遠い家は、埼玉県・大宮氷川神社に連なる社家の枝で、幼いころ、私は境内のはずれにある小社へ連れて行かれた。人が祭礼で賑わう大鳥居の先ではなく、もっと裏。石段の隙間に草が座る場所。

 そこで私は、名を呼んだ。習ったわけではないのに、口が勝手に形を作った。たぶん、血の覚え。

 石の中から冷たい手が伸び、私の影を撫でた。気に入られた、というのは、あの時のことだ。怖くはなかった。怖さは、向こうに渡した。

 それ以来、私は霊を捕縛し、封じ、背後霊にして飼うことができる。名を与え、系統を作る。スサノオもハチ公も、元は別物だけど、その名を与えるだけで、その系統の筋がつながり、霊力が上がる。アラハバキは別格だ。与えられたのは、向こうから好意の名。

 私は、札の箱を片づけ、藁人形と荒縄をカバンに戻す。メリーさんは、窓の影に立てておく。窓から入る人の視線を吸わせる。練りが進む。


 小さく喉を鳴らした時だ。ドアがコンと鳴った。続けて、野太い声。


「しじまー、またやっかいな霊を呼び込んだんじゃないだろうな! 父さんは心配だぞ!」


 床板がわずかに震える。私はため息を鼻で吸って、短く返す。


「……だいじょうぶ」


「どーしたー! 呪われて声が出ないかー!! 父さんが、筋肉で助けてやる!」


「ちょ、だめ、鍵——」


 ガン、ガコン、バキ。

 鍵のかかったドアが、ぶち抜かれた。蝶番が泣いて、ドアは内側へ倒れる。

 父親が立っている。長身、スキンヘッド、筋肉隆々。上半身はタンクトップ。露出した肩から腕、胸、脇腹にかけて、御経の入れ墨がびっしり。見た目は完全にヤバい人だが、目は丸く、眉は下がっている。


「しじまー! 大丈夫か! 冷気がもわっと出てたぞ! 今、気合で払うからな!」


「……だいじょうぶ。仕事。入ってこないで」


「ハァ!? 呪詛返しか!? おい、四股踏むぞ四股! ドンッ!」


 父が床を踏み鳴らす。天井の埃が落ちかけた、その瞬間——


「あんたはーーー! またしじまちゃんを子ども扱いしてんのかい!」


 入り口の向こうから、綺麗な声が飛ぶ。

 和服の女性が滑るように現れた。黒髪を結い、薄い色の着物。所作が静かで、目だけがよく通る。母親だ。美人。熟女。

 父がビクッと肩を上げる。


「かっ、かっかあちゃん! いや、その、誤解だよ。しじまの部屋から邪悪な冷気が出てたから、俺が——」


「しじまちゃんは良い女性なのに、部屋のドアをぶっ壊して、なにを言ってますの?」


「い、いやぁ……邪気が、な? な? 御経で——」


「出て。今すぐ。直すのはあなた。職人さんに今日中に連絡。わたしの前で電話して」


「……はい」


 父は萎縮して、すごすご引き下がる。母が軽く私に会釈する。


「ごめんね、しじまちゃん。ドアはすぐ直させるから」


「……うん」


「この人、叱ってくるわね」


 母は父の首根っこを軽くつまむみたいにして、廊下へ連れ出した。

 廊下の先の部屋の障子が閉まり、その奥から、静かだけれど入ってはいけない圧のある空気が滲んだ。父の小さな返事が二度、三度。合いの手のように、御経の文句がか細く漏れる。

 私は崩れたドアを見て、肩をすくめる。家族というやつは、面倒だ。嫌いではない。距離が要るだけ。


 床のほこりを払い、メリーさんの霊を背後へ戻し、カバンを持つ。

 ドアが壊れたこと、母の怒り。この空気の中にいるのは居づらい。私は廊下に出て、足音を小さく、家を出た。


 外は午後の終わり。横須賀の風は潮の匂い。私は猫背のまま歩く。

 長身と、胸のせいで、視線を集めやすい。今日は父が壊したドアのせいで、余計に苛立つ。男性の視線は、斜めから刺す。逃げるように、人の少ない喫茶店に入った。


 カウンターには年配のマスター。静かなジャズ。客は二人。

 私は奥のテーブルに座り、「紅茶」と短く告げる。聞き返される前に、指でメニューの紅茶を押さえた。

 湯気が立つ。温かい。両手で持つ。心臓の音が落ち着いていく。

 私は考える。


 最近、心霊スポット巡りのバカが増えた。仕事は順調に増える。金は入る。だが、父の心配もわかる。

 心霊スポットで取り殺されるバカは、霊を邪悪化させ、霊力を上げる。助ける気はない。でも、依頼が来れば、割に合わないことも増える。放置すれば、周辺の人間に無差別で被害が出る。

 金で線を引く。それが私のやり方。けれど、線は時々にじむ。


 私はスマホを取り出す。自分のサイト――零域の私の板を開く。依頼の確認。

 依頼以外にも心霊情報が多い。噂、実況、写真、録音。探すのに時間がかかる。指でスクロール。文字の海は途切れない。

 その中に、目に引っかかるスレッドがあった。


> 横浜・港北区インター側の廃屋ラブホテル

行方不明になった。助けてほしい。

金は払う。すぐに。




 私は画面を拡大する。

 場所は知っている。有名心霊スポット。バカが何度も行った場所。霊気が濃い。関わらないほうがいい部類。

 料金のメモを頭でめくる。行っていない者からの捜索なら、数十万。救出や弔いは追加。自分で行ったバカを助けろなら、数百万以上。

 私は悩む。

 値段。

 そのバカの死に様を見に行くこと。

 そして、その場所の霊を捕らえること。

 楽しみの計算が、頭の中で勝手に足し算をする。指先に笑いがのぼる。


「……ウヒヒ」


 私は紅茶を一口飲む。唇が温かくなる。

 メリーさんは、あの廃村で取れた**“人形”の線。廃ホテルの線とつなげるなら、見世物にされた部屋**、鏡、薄暗い廊下、割れた防犯カメラ。人の匂いと汗の残骸。ハチ公は働きやすい。スサノオは狭い場所で抜きにくい。アラハバキは、土ではなく建材に弱い。なら、札と縄の仕事を増やす。メリーさんは囮に向く。実体化で踏ませる。重しにする。


 店のガラスに私の顔が映る。前髪が長い。目が半分隠れる。猫背。胸の影が大きい。

 私は視線を落として、板に短く返信を書く。


> 条件は板の規定どおり。

行っていないなら捜索で数十万。

救う場合は追加。

夜にしか動かない。詳細をDM。




 送信。

 カップの底に茶葉が少し沈んでいる。私はそれを見て、息を吐く。父の声、母の静かな圧。家の空気。ドアは今日中に直るだろう。

 私は会計を済ませ、立ち上がる。椅子の足が床を小さく擦る。

 外は夕方。風がまた、港の方向から吹く。

 行くかどうかは、夜の匂いを嗅いでから決める。依頼が本物なら、金は動く。バカがまた一人、霊の餌になっているなら、捕まえる価値はある。

 私はカバンの位置を直し、歩き出す。遅く。必要なときだけ、早く。

 次の札の余白は、もう用意してある。



---続く


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