2話
ぶうん、と壁が唸る。
陽射しの呼び声届かぬ地下の穴ぐらで、
長身痩躯と言えば聞こえは良いが、どれだけ食べても肉のつかない身体に褪せた灰色の髪。年齢はかなり上に見られるがこれでも四十前である。生まれつき色素が薄いため肌の色は白く、両手の指先だけが黒く染まっているのは日々無造作にあらゆる薬品を扱うためで、指紋はほとんど消えている。
瞳は淡く金の虹彩をまとって常人ならぬ気配を発しており、
その他、地底キノコだの鍾乳石だのさんざんな言われようだが、白蓮こそが〈白蓮洗衣店〉の主であり、特殊漂白を扱う唯一無二の人物。
熔錬街が決して手放したがらない男なのであった。
ぶうん。
もう少し寝ていたかった、と恨みを込めて身を捩り、腹に巻き付いていた上掛けをなんとか剥がして上体を起こす。肉体は着実に年をとって、寝て起きても疲れのとれないくたびれたおっさんになりつつあることを今ひしひしと実感しながら、同じ理由でもう寝付けないこともわかっていた。
店舗直下のこの住まいは真上の話し声からは隔てられているものの、地響きなんかは壁づたいに伝わって、ともすれば街の外の音まで届く。いまも寝台が震えるのが気持ち悪くて起こされたが、これまでの経験から現場はまだまだ遠いと踏んで、もたもたと寝間着の帯を解きながらシャワーに向かった。喧嘩か抗争か、建物が爆破されるくらいは茶飯事で、いちいち過敏になっていたのでは先に精神がやられてしまう。
住居というには無機質なひとりずまい。銀色の戸棚に並ぶ試薬瓶が、時折かたかたと揺れる。
熱い湯を浴びながら、特別に薬草を調合した石鹸を泡立てて身体のすみずみまで洗い上げる。骨と皮ばかりの枯れた身体であっても生き物である限りは老廃物や匂いを発し続けているもので、これをいかに薄く抑えるか。職業柄、日に三度はシャワーを浴びて一度は必ず湯船に浸かり、香りの強いものは食べないし近づかない。必然的に人付き合いも細く薄くなるもので、透明人間が実在するならこんなかんじだろうか、と想像を巡らせてみたりもする。
しかし透明になりきれないのは、雀が白蓮を放っておかないからである。あの鮮やかな存在感をもって表に引きずり出されては、本物の透明人間ですら隠れていられるか怪しい。
慣れた手順に暇を持て余した脳味噌が四方八方に思考を散らしていると、ドオン、と今度は裸足が明らかな振動をとらえた。ほぼ同時に、水音にも負けぬ衝突音が耳に届く。
「……これはまた、元気いっぱいだな」
色の薄い眉をひょいと持ち上げ、溜息の代わりにひとりごと。シャワーの栓をきゅっと捻って、いまひとつ水はけの悪いブース内をざっと足で掃いてから、スイッチをブロワーに切り替えて壁も身体も一気に乾かした。
すっかりからからに乾いてしまうと、着るものは積んでおいたものを上から取った。腰巻きを身に着け、前開きの長衣には広巾の帯を締める。
真っ白は死装束みたいだからやめろと雀に言われかろうじて淡い群青や鼠で揃えているが、それすらも何やら重たい気がした。結果、傍から見ればいつも服装が変わらないので「洗濯屋なのに一張羅か」と揶揄されるのだが、それ以上の色や柄ものを着る気になれないので「はあそうですね」と適当に流すほかない。
どんな色彩も、淀みに溜まればたちまち濁る。
その苦さを身を以て知っているからできるかぎり遠ざかっていたいのが白蓮の心理で、これをまた雀が「辛気臭い」と両断する。
白蓮が生きている限り何をしても雀の怒りを買うのだ。付き合いが長くなればその矛先も見えてくるもので、いち生命としての薄弱さが彼女の逆鱗に触れるのだと察しがついてはいる。危機感が薄い、とは子供のころからよく言われていて、身を守ることへの頓着がない自覚はあった。防御の用意もないのに手が出てしまうから、度重なる薬品やけどばかりでなく人生のあらゆる場面で痛い目をみてきたのも事実だ。
学習せよ、と人は言う。それでも悪癖は治らない。なにものかに興味を向けたが最後、己の肉体が思考からすこんと抜け落ちてしまうのだった。
己の指を見るともなく見ながらぼんやりしていると、壁面の通気口がガガッと音を立てた。
『あるじ! 起きてますか!』
凛と張りのある響きは燕の声である。
本来通信用途ではないものを、このように横着して人を呼びつけるのに使っている。音が悪いから細かいやりとりには向かない。そもそも怒鳴らないと聞こえないので、息せき切って駆けつけてみたらもらいものの茶菓子を配るためだけだったりする。だから今回も大したことはなかろうと、三たび訪れた地響きの正体と結びつけることもなかった。
さて履き物はと足先を彷徨わせているあいだに、『早くしな!』と今度は雀のしゃがれ声。
「はいはい、今行きますよ」
怒鳴り返すようなことはしない。どうせ階段をのぼってしまえばすぐなのだ。
と、ひんやりした石の階に足をかけたところで履き物を忘れたことに気がついた。夏だし裸足のままでもまあいいかと、そのまま音もなく駆け上がる。
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