1話

〈クリーニング屋には手を出すな〉。

 熔錬街にはおかしなきまりごとがいくつかあるものの、初心者が一様に首を傾げる忠告と言えばこれだろう。

 ――たかがクリーニング屋に

 ――何の冗談だ?

 ――ていうか、この街にクリーニング屋なんてあったのか

 忠告する側も慣れたもので、相手の顔にありありと浮かぶ困惑の色をさっと掬い上げるなり「悪いことは言わない、今にわかる」と続けるまでが一連の流れとなっている。勘のいい者はこの時点で裏にある厄介事を察するし、同じく臆病な者も素直に従う。裏社会に意味のない規則は存在しない。その場の力関係や気分次第でなんでも破壊してしまうような無法者どもがわざわざ取りきめ知らしめるからには当然、守らなければ命に関わる。熔錬街のきまりは街を仕切る者どもの意思のあらわれであり、おいたを働いて叩き出されるだけならまだしも、跡形もなく消し去られたとしても文句は言えない。

 だから、クリーニング屋というといわゆる裏社会の掃除屋だと思われがちなのだが、白蓮洗衣店は真っ当に衣類の洗浄や手入れを生業としていた。

 特筆すべきはその技術。他の追随を許さぬ唯一無二の腕が、国家の上層部までが贔屓にする所以である。

「いつもいつも面倒なものを持ってきやがって。お代はしっかりもらうからね」

「またまたあ、ここはお得意さんってことでひとつ」

「自分で言うんじゃないよ図々しい」

 ひとまわりもふたまわりも大きな図体の男達を、初老の小柄な女がばっさばっさと斬り捨てていく。年齢を重ね、まるみの削げ落ちた頬に刻まれた皺。眉はほぼなし、口紅だけはしっかりと引いて、吊り気味の目元はいまだ鋭い。その迫力に、かつて若かりし頃は相当の美人だったことが伺える。

 季節は夏を迎えようとしており、朝日が燦々とさす南向きの店先は扇風機が三台回っていても決して涼しいとは言えなかった。一重の着物に大輪の牡丹、帯と襷は揃いの翡翠、銀のすじ走る髪は漆の簪でひとまとめ。目の覚めるような派手な装いも細腕に肘上までしっかりと手袋で覆って、必要に応じて口元も覆いながら、持ち込まれた衣類を的確に仕分けていく。汚れの種類は血糊に硝煙、薬の類。客に出どころを問うなんて野暮はしない。

 どんな汚れも元通り。まるで、何事もなかったかのように。

 一切の痕跡を残さないのがこの店の売りで、それは創業時から徹底している。

「ああそこのあんた、そっから動くんじゃないよ」

「ああ?」

「日除けにちょうどいいんだよ」

「む」

 言いつけられた男の首元から袖口から見事な彫り物がのぞいている。格もずいぶん高いようだが、雀姐さんの前では誰もが小僧であり小娘である。

「はー涼しい」

「悪いねえお兄さん」

 比較的穏当な洗い物を抱えた女たちがにこにこと見上げると、男はああとかううとか言葉にならない唸り声を漏らしてそっぽを向いてしまった。

 カウンターには、痩せた犬のように抜け目のない目をした小男。持ち込んだ大きな袋の中身をあけると、汗と埃の空気砲がぼわっと立ちのぼる。そのなかに、えぐみの強い何かが混じっているのを雀は見逃さなかった。

「燕、紫」

「はい姐さま」

 燕と呼ばれた青年は艶のある黒髪をさらりと耳にかけつつ、あらかじめ準備していたなめし革の袋をさっと差し出した。

 これは他の洗い物と厄介ものを明確に区別する場合に使う。奥の工場では手に負えない、よりいっそうの洗浄が必要なもの。

 見るからに不穏な、血痕の散った男ものの襯衣は通常の青札に印をつけて適当に後ろの籠へ。放り込みざま雀が目をつけたのは一見なんの変哲もない白帯で、襯衣のなかからずるりと引き抜くなり、遠くへ伸ばした腕をさらに遠ざけながら、燕が広げた袋の口に落とした。

 燕は手早く袋の口を絞り、これに紫の札をつけて店の奥に消える。

「おい、ああいうのははじめから分けておけって言ったろ」

「いやあ、あんまりおおっぴらにするもんでもないしな」

「チッ」

 底に狡猾さが見え隠れする客の笑顔に、雀は苛立ちながら珠算を弾いてそのままずいと差し出した。

 代金は前払い制。だから預かり時の確認は徹底する。

「うわ、吹っ掛けるなあ」

「余計な口を叩くからだよ」

「大して喋ってないだろ」

「顔がうるさい」

「なんだと」

 ああ言えばこう言う客に、雀の目元がすうと細くなる。これ見よがしに溜息をつくと、一段と声が低くなった。

「うしろが詰まってるんだよ、とっとと払いな。モノは全部預かってるからね。払わないんなら債務不履行で地の果てまで追っかけるだけだよ」

 ほら早く、と軽く手を振って渋々の代金を受け取ると、口元の紅は途端に弧を描いた。

「毎度」

 いつの間に戻っていた燕が抜かりなく預かり状を差し出す。順番待ちの客たちの視線が一身に注がれると、自称得意客の男は追い出されるように退店していった。

 その背を見送りつつ鼻で笑う雀の耳元に、燕が頬を寄せて囁く。

(あの手の輩は僕が相手しますのに)

(なら、手を出さずにいられるかい)

 釘を差されるなり、片眉を上げて姿勢を戻す。それが燕の答えだ。

「まったく、血の気が多くてしょうがないよ」

 他の客からも笑みを含んだ同意の気配。そして洗い物の受け入れは続く。

 ちょっとやそっとの揉め事もすぐさま鎮火する。カウンターを担う雀の覇気や人あしらいの巧さによるところもあるが、やはりこのクリーニング店の果たす役割によるところが大きい。

 熔錬街のような街では、人ひとりの一切の痕跡を抹消することで関係の修復や生存を図ることがままある。相手の目を眩ませられればそこまで。深追いはしない。それまでの人生を捨てる覚悟を決めたなら、あとは逃げ切った者勝ちなのだ。

 高級衣類の手入れや頑固な汚れ落としと言った日常の需要も当然に高いのだが、白蓮洗衣店を失うことは裏社会での逃げ場を失うことに等しく、そのため街ぐるみで手厚く保護され、存続と安全を保証されているのだった。

「雀姐さんには敵わないなあ」

「誰が化物だって」

「そんなこと言ってないよ」

 噛みつく女将に慌てる客。燕は穏やかな表情を崩さず、しかし心のなかでくすりと嗤う。

 化物なら別にいますよ、と。

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