第15話

王城で夜会が催される日。

俺の小さなタウンハウスは、朝から普段とは違う慌ただしさに包まれていた。


「マスター、こちらの衣装でいかがでしょうか。アシュフィールド家の紋章を、銀糸で目立たぬようにあしらってみました」


セラフィーナが、子供用の豪奢な礼服を俺の前に差し出す。公爵令嬢である彼女が、俺の衣装選びから着付けまで、かいがいしく世話を焼いている。その姿は、事情を知らぬ者が見れば倒錯的とすら思うだろう。


「うむ、悪くない。だが、少し華美すぎるな。僕は辺境貴族の三男坊だ。分をわきまえていると、周囲に思わせる必要がある。あちらの、もっと地味なやつでいい」


「……承知いたしました」


俺の言葉に、セラフィーナは一瞬だけ不満げな表情を浮かべたが、すぐに完璧な従者の顔に戻った。彼女は、俺が王女に会うという事実そのものに複雑な感情を抱いている。それは嫉妬とは少し違う。自分の知らないところで、敬愛する主人の計画が進むことへの、一種の焦燥感のようなものだろう。


隣では、エラーラがセラフィーナの用意した美しいドレスを前に落ち着かない様子で佇んでいた。孤児院の薄汚れた服しか知らなかった彼女にとって、絹のドレスや宝石の髪飾りはまるで自分のものではないかのように感じられるのだろう。


「エラーラ、似合っているぞ。お前は僕の弟子だ。堂々としていればいい」

「は、はい、マスター……!」


俺の言葉に、彼女の表情がぱっと明るくなる。俺の言葉だけが、彼女の世界の全てだ。それでいい。


こうして、異様な三人組――出来損ないの三男坊と、その従者であるはずの謎の少女、そしてなぜかその二人にかしずく公爵令嬢――は、王城へと向かう馬車に乗り込んだ。


◇◇◇


王城は、俺が前世で住んでいた賢者の塔とはまた違う、権威と歴史の重みで満ちていた。大理石の床は磨き上げられ、天井からは巨大なシャンデリアが星屑のような光を降り注ぐ。行き交う貴族たちは皆、一分の隙もない着こなしと、計算され尽くした笑顔を顔に貼り付けている。


「すごい……」と息を呑むエラーラの隣で、セラフィーナが俺に周囲の人間関係を囁く。


「マスター、あちらが魔法兵団を束ねるマクシミリアン侯爵。その隣にいるのが、財務卿のオズワルド伯爵です。両者は犬猿の仲として知られています」


彼女は、俺のとして完璧にその役割を果たしていた。


俺は、そんな周囲の権力者たちには目もくれず、ただ一点だけを見つめていた。

ホールの中央、最も多くの人々に囲まれている一人の少女。年の頃は十五。夕陽を溶かしたかのような金髪を優雅に結い、その瞳は澄み切った冬の空のような蒼色をしている。立ち姿には、若さに似合わぬ気品と威厳が備わっていた。

彼女こそが、この国の次期女王、第一王女アリシア・フォン・セントラリアだ。


彼女の周りには、野心に満ちた有力貴族の子息たちが、ハイエナのように群がっている。彼らは皆、未来の王配――すなわちこの国の実質的な支配者の一人――という、最高の栄誉を狙っていた。


アリシアは、その全てを完璧な笑顔でいなしている。誰に対しても公平で、誰に対しても優雅。まさに理想の女王候補。だが、俺の魔力視マナサイトには、その完璧な仮面の下で彼女の魔力が微かに揺らいでいるのが見えた。それは、長期間にわたって強いストレスに晒された人間が無意識に発する、魂の悲鳴のようなものだった。


(さて、お手並み拝見といこうか、未来の女王陛下)


俺は、ただ遠くから観察するだけでは満足しなかった。

俺はエラーラに目配せをすると、わざと人混みの中へ足を踏み入れた。そして、タイミングを見計らい、給仕が持つ酒のトレイにエラーラの背中を軽くぶつけた。


ガシャン!という甲高い音と共に、グラスが床に落ちて砕け散る。周囲の貴族たちが眉をひそめてこちらを見た。給仕は顔面蒼白になり、エラーラは小さな身体を震わせている。完璧な演出だ。


騒ぎに気づいたアリシア王女が側近を制してこちらへ近づいてきた。その歩みは、水の上を滑るように優雅で、訓練され尽くした王族のものだった。


「どうかなさいましたか? お怪我は?」


その声は鈴を転がすように美しいが、どこか感情の乗らない形式的な響きがあった。彼女はまず、震える給仕とエラーラの両方に気遣いの言葉をかける。為政者としての教育は行き届いている。


「申し訳ありません、王女殿下。私の従者がご迷惑をおかけしました」


俺は子供らしく、しかし堂々とした態度で王女の前に進み出た。

アリシア王女は俺の姿を見て少しだけ目を細めた。おそらく、俺と俺の後ろに控えるセラフィーナという、あまりにも不釣り合いな組み合わせに興味を引かれたのだろう。


「あなたは……?」

「アシュフィールド男爵家が三男、リアムと申します。こちらが私の従者のエラーラ。そして、こちらは家の者が世話になっております、リヒトハイム公爵家のセラフィーナ様です」


俺がセラフィーナを紹介すると、周囲の貴族たちが小さくどよめいた。公爵令嬢が辺境貴族の三男坊にかしづいている。この異常な光景は、彼らの頭を混乱させるには十分だった。


アリシア王女は、さすがに動揺を隠せないようだったが、すぐに完璧な笑顔を取り繕った。


「そう。アシュフィールド家の……。子供のしたことです、気になさらないで。それより、あなたには興味深いお連れ様がいるようですわね」


彼女の視線は、俺を値踏みするようにじっと見つめている。


俺は、この機会を逃さなかった。


「王女殿下は、どうしてあの方々が殿下の周りに集まっているか、ご存知ですか?」


俺は、王女を取り巻く貴族の子息たちを子供の無邪気さで指さした。


周囲の空気が凍りつく。王族に対してあまりにも不敬な質問。だが、アリシアは怒るでもなく、面白そうに小首を傾げた。


「……どうしてだと思うのかしら? リアム君」

「僕には、餌に群がる鯉のように見えます」

「ほう?」

「彼らは、殿下というお立場、その権威というに群がっている。誰が殿下の隣に立つか。誰が、次の権力を握るか。……アリシア殿下という一人の人間のことを見ている方は、あの群れの中に一人もいないように見えました」


俺の言葉は、静まり返ったホールに響き渡った。それは、誰もが思っていながら決して口には出せない真実だった。アリシア王女の顔から、完璧な笑顔が初めて消えた。彼女の澄んだ蒼い瞳の奥に、見透かされたことへの動揺と、怒りとは違うある種の諦観が宿るのを、俺は見逃さなかった。


彼女はしばらく俺を黙って見つめた後、ふっと息を吐いて、心の底から面白そうな、しかし少し寂しげな笑みを浮かべた。


「……面白いことを言う子ね、リアム・アシュフィールド。あなたの名、覚えておくわ」


王女が去っていく。俺はその小さな背中を見送りながら、静かに結論を下していた。

アリシア・フォン・セントラリアは、俺が想像していたよりも遥かに使。彼女はただのお飾りではない。自らの孤独を自覚し、その上で女王としての役割を演じきろうとする、強い意志と知性を持っている。


だが、それゆえに脆い。俺の心に、美しいガラス細工を自分のコレクションに加えたいと願うような、冷たい独占欲が芽生えた。


「さて、と」


俺は、何も知らない貴族たちが騒がしく行き交うホールを眺めながら静かに呟く。


「女王陛下の孤独を癒せるのは、この世でただ一人――この僕だけだ、ということを、これから教えて差し上げるとしよう」


王国の運命を賭けた、元大賢者の壮大なゲーム。

その盤上に、最も気高く、最も価値のある駒が、今、確かに乗せられた。

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