第12話
リアム・アシュフィールドと名乗った子供を前に、レオ・ヴァレリウスは、生まれて初めて「理解不能」という感情に支配されていた。
ソファに深く腰掛け、まるで王が臣下を謁見するかのように自分を見つめる少年。その隣には、全ての元凶である亜麻色の髪の少女が、表情一つ変えずに控えている。
ここは、辺境貴族の三男坊が住まう、質素なタウンハウスのはずだ。だが、レオには、まるで竜の巣穴にでも足を踏み入れたかのような、圧倒的なプレッシャーが肌を刺すのを感じていた。
「さて、座ったらどうだ? 立ち話もなんだろう、
促され、レオは警戒を解かぬまま、リアムの対面にあるソファに腰を下ろした。彼は、まずこの奇妙な状況の主導権を握るべく、交渉の口火を切った。
「…面白い手品を見せてくれる。まずは、私の金庫を元に戻していただこうか。話はそれからだ」
これは、相手の力量を測るためのジャブだ。この要求に素直に応じるようなら、御しやすい相手だと判断できる。
しかし、リアムは子供らしい笑顔で、あっさりと首を横に振った。
「断る。君は勘違いをしているようだ、レオ・ヴァレリウス。僕は、君に何かを頼みに来たわけじゃない。君に、機会を与えに来たんだ」
「機会、だと?」
「そう。君という男は、常に利益と危険性を天秤にかける。違うか? ならば、僕と組むことの利益が、僕を敵に回すことの危険性を上回ると、君自身に判断させてやろう」
リアムは、テーブルの上に置かれていた一枚の羊皮紙を、レオの方へ滑らせた。
そこには、いくつかの名前と、数字が羅列されていた。
レオは、訝しげにその紙を手に取る。そして、そこに書かれた内容を読んだ瞬間、彼の金色の瞳が、驚愕に見開かれた。
「…これは…」
「君が最も信頼している部下の一人、マルコ。彼は、君の商売敵である
レオの背筋に、冷たい汗が流れた。
そこに書かれている情報は、あまりにも正確すぎた。マルコは、彼が孤児だった頃から面倒を見てきた、腹心中の腹心。その裏切りなど、微塵も考えたことはなかった。だが、この羊皮紙に書かれた金の流れは、最近の不可解な取引の失敗の数々を、完璧に説明していた。
「どうやって、これを…?」
「僕が誰で、どうやってそれを知ったか。そんな詮索は無意味だ。重要なのは、僕が君の知らない全てを知っているという事実。そして、その情報を君に与えることができる、という事実だ」
リアムは、まるでゲームを楽しむように続けた。
「例えば……王都の地下水路の改修工事。来月、入札が行われるな。君も、いくつかの建設ギルドに金を貸し、裏で糸を引いている。だが、その工事は必ず失敗する」
「何…?」
「工事予定地の下には、古代遺跡の空洞が広がっている。三週間後、大規模な陥没事故が起きるだろう。君が投資した金は、全て水泡に帰す。…だが、もしその情報を事前に知っていたら? 逆に、ライバルたちに偽の情報を流し、陥没に巻き込むこともできる。全ての利権を、君が独占できる」
レオは、息をすることも忘れて、リアムの言葉に聞き入っていた。
目の前の子供が語っているのは、単なる情報ではない。それは、未来そのものだ。この子供は、まるで神の視点から世界を眺めているかのように、全てを知っている。
敵に回す? 馬鹿げている。この存在を敵に回すことは、世界の理そのものを敵に回すことに等しい。
利益と危険性の天秤は、もはや比較にすらならなかった。
レオ・ヴァレリウスは、商人として、そして生き物として、本能で理解した。
この子供の側に付くことこそが、唯一にして最大の利益なのだと。
「…何が望みだ?」
レオの声は、かすかに震えていた。それは、恐怖ではない。武者震いだ。とてつもない好機を前にした、興奮だった。
リアムは、その返事を待っていたかのように、満足げに頷いた。
「僕は、君の金が欲しいわけじゃない。僕が欲しいのは、君の才能と組織だ」
「…というと?」
「君には、僕の『財布』になってもらう。僕の指示で、特定の商会を潰し、特定のギルドを支援し、市場を操作する。時には、僕の計画に必要な物品を、どんな手段を使っても調達してもらう。君の持つ、金の力と裏社会の繋がり。その全てを、僕のために使え」
それは、王都の闇金融を牛耳る男に対する、あまりにも傲慢な要求だった。
だが、レオは不快に思うどころか、その金色の瞳を爛々と輝かせていた。
「見返りは?」
「言ったはずだ。僕の情報を与える。君が、この国の経済を裏から完全に掌握できるほどの、絶対的な情報をな。君の敵は全て消え、君の富は無限に増え続けるだろう。僕という最強の後ろ盾を得て、君は『金色の狐』から、
悪魔の囁き。だが、それはレオ・ヴァレリウスという男の野心の、最も深い部分を的確に貫いていた。
彼は、ソファから静かに立ち上がると、目の前の小さな主人に向かって、深々と頭を下げた。
「…契約、成立とさせていただこう。リアム様。このレオ・ヴァレリウスの全てを、貴方様のために」
その言葉と同時に、レオは背後でカタン、と小さな音がしたのを聞いた。
振り返ると、あれほど頑として開かなかったはずの金庫の扉が、まるで初めから何もなかったかのように、静かに開いていた。
リアムは、まるで退屈な手品でも終えたかのように、小さくあくびをした。
「ようこそ、我が陣営へ。レオ。君の働きに、期待している」
こうして、王都の経済を裏から牛耳る第三の駒は、自らの意志で、喜んで盤上へとその身を捧げた。
歴史の影に潜む元大賢者の、世界支配のための役者たちは、ついに揃った。
王都の夜景を見下ろすタウンハウスで、リアムは静かに次の手を思考する。
駒は揃った。
ならば、次はこの盤面そのものを、大きく揺さぶる時だった。
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