第3話

エラーラが魔力を知覚し、最初の魔法を灯した夜から、一年という月日が流れた。

俺たちの秘密の師弟関係は、誰にも知られることなく、より深く、濃密なものへと変わっていった。


リアム・アシュフィールド(六歳)としての俺の評価は、相変わらず「平凡な三男坊」。兄たちの武勇伝の影で、書庫の隅で絵本を読んでいる、存在感の薄い子供。両親も兄たちも、そして屋敷の誰もが、俺に何の期待も抱いていない。それは俺にとって、この上なく快適な状況だった。


だが、夜の森における俺は、全く別の顔を持っていた。


「――違う、エラーラ! 水の魔法は力で押し出すな! 流れを読み、最小限の力で導け! お前は川の氾濫を操りたいのか、それとも清らかな湧き水を汲みたいのか、どちらだ!」


「は、はい、師匠マスター! も、もう一度…!」


月明かりの下、ずぶ濡れになったエラーラ(七歳)が、必死の形相で両手を前に突き出している。彼女の前には、俺が即席で作った岩の的。彼女の仕事は、近くの小川から水を操り、あの的に当てることだ。


彼女の才能は、やはりだった。

魔力の制御を覚えてわずか一年で、彼女は火、水、風、土の四大属性の基礎魔法をすべて習得してしまった。普通、人間には生まれ持った属性の得手不得手がある。しかし彼女には、それがない。まるで、真っ白なキャンバスがどんな色でも受け入れるように、あらゆる属性の魔力を己のものとして染め上げていく。全属性適性オール・エレメント。それは、かつての大賢者である俺ですら持ち得なかった、神に愛された才能の証だ。


だが、それゆえの問題もあった。

彼女は、力が強すぎるのだ。

水を操れば、小川の水をすべて巻き上げて津波を起こしかける。火を灯せば、森を焼き尽くさんばかりの火柱が上がる。彼女の膨大な魔力量と、規格外の属性適性が合わさり、魔法の威力が常に過剰オーバーパワーになってしまう。


「いいか、エラーラ。魔法の極意とは、威力じゃない。だ。いかに少ない魔力で、最大の効果を発揮するか。常にそれを考えろ。お前の魔力は無限じゃないんだぞ」


俺はそう言って彼女に歩み寄り、彼女の手の上からそっと自分の手を重ねる。


「水の分子一つ一つを感じろ。それらがどこへ行きたがっているのか、声を聞くんだ。お前はただ、その流れをほんの少しだけ、望む方向へ変えてやればいい」


俺が自分の魔力で彼女の魔力を誘導ガイドすると、今まで荒れ狂っていた水流が、まるで生き物のように滑らかに形を変え、一本の水の槍となって岩の的を正確に撃ち抜いた。


「あ…!」


「そうだ。今のお前の魔力消費は、さっきまでの十分の一以下だ。だが、結果は?」


「…的を、壊せました」


「そういうことだ。力を誇示するな。力を支配しろ。それが、真の魔法使いへの第一歩だ」


「はい、マスター…!」


エラーラは、俺の教えをスポンジが水を吸うように吸収していく。その素直さとひたむきさは、弟子として理想的だった。そして何より、俺の言葉を、俺という存在を、絶対のものとして信じている。その純粋な信頼が、彼女の成長をさらに加速させていた。


修業を始めてしばらく経った頃、俺は彼女に一つの特別な課題を与えた。

それは、魔法を「見えなくする」技術だった。


「マスター…? 魔法を、見えなくする…ですか?」


「ああ。魔法というものは、発動する際に必ず魔力の輝きや魔法陣が可視化される。それは敵に、『今から魔法を使いますよ』と教えているのと同じことだ。真の使い手は、気配すら殺す」


これは、前世の俺が暗殺者や間諜を育成する際に用いていた、極めて高度な技術だ。魔力の波長を周囲の環境に完全に同化させ、あらゆる探知を無効化する。これを幼い子供に教えるなど、常識では考えられない。だが、エラーラなら可能だと俺は踏んでいた。彼女の無属性とも言える魔力特性は、何色にでも染まる。つまり、周囲の環境に溶け込むことにも長けているはずだ。


「まずは、この一枚の葉を、風魔法で揺らしてみろ。ただし、誰にも魔法を使ったと気づかれないようにだ」


それは、あまりにも地味で、困難な修業だった。

エラーラは来る日も来る日も、ただ一枚の葉を揺らすためだけに、森に通い続けた。最初は必ず魔力の光が漏れてしまい、葉は激しく揺れすぎた。だが、彼女は決して諦めなかった。俺が「やれ」と言ったからだ。


そして一ヶ月後。

俺とエラーラが森の広場にいると、ふいに、一本の木からハラリと一枚の葉が落ちた。それはまるで、自然に風に吹かれて落ちたようにしか見えなかった。だが、俺の魔力視マナサイトは、その葉に極めて微弱な風の魔力が纏わりついていたのを、確かに捉えていた。


俺は、声を出さずに笑った。

エラーラは、はにかむように、しかし誇らしげに俺を見つめている。


「…どう、でしょうか…マスター」


「ああ。完璧だ、エラーラ。お前はまた一つ、本物の魔法使いに近づいた」


俺の言葉に、彼女の顔がぱあっと明るくなる。その笑顔が見たくて、俺は彼女に無茶な要求を繰り返しているのかもしれない。

…いや、違うな。全ては計画のためだ。彼女は俺の最高の駒であり、それ以上でもそれ以下でもない。俺は心の中で、そう自分に言い聞かせた。


そんなある日のこと。

俺たちの秘密の修業に、予期せぬ闖入者が現れた。

それは、次兄のアランだった。


彼は最近、俺が教えた身体強化の基礎を完全にマスターし、騎士団の大人たちを相手に無双していた。「アシュフィールドの神童」という噂は、すでに領外にまで届き始めているらしい。全ては俺の計画通りだ。


その日、アランは自主練と称して、いつもより深く森に入ってきていた。そして、エラーラが水の魔法を練習している光景を、偶然にも目撃してしまったのだ。


「…おい、リアム…? それに、その子は…たしか孤児院の…」


物陰から現れたアランに、エラーラはビクッと体を震わせ、咄嗟に俺の後ろに隠れた。

アランの目は、俺たちと、そして濡れた岩の的に向けられていた。その表情は、驚きと、困惑と、そして微かな疑念に満ちている。


「お前たち、ここで何を…?」


まずい。俺たちの関係を知られるのは、まだ早すぎる。俺は瞬時に思考を巡らせ、最も被害の少ない言い訳を口にした。


「…兄さん。この子はエラーラ。僕の、友達だよ」


「友達…?」


「うん。エラーラは、魔法の真似事が好きなんだ。だから、僕が知ってることを、少しだけ教えてあげてたの」


あくまで「子供の遊び」の範疇であると、俺は強調した。

アランはまだ腑に落ちない顔をしていたが、俺が「出来損ない」であるという事実が、彼の疑念を鈍らせたようだった。魔力もろくにない弟が、魔法を教えるなど、あり得ないと思ったのだろう。


「…そうか。だが、こんな森の奥は危ない。早く屋敷に帰るんだぞ」


アランはそう言い残し、どこか釈然としない様子で去っていった。


兄の背中を見送りながら、俺は静かに決意を固めていた。

(…潮時か)


エラーラの力は、もはやこんな辺境の森に収まる器ではない。

そして、アランのような不確定要素が、俺たちの計画を脅かす可能性も出てきた。


――次の舞台へ、駒を進める時が来たようだ。


俺は隣で不安そうにしているエラーラに向き直り、悪戯っぽく笑いかけた。


「エラーラ。王都に、行ってみたくはないか?」


世界を裏から支配するための、次なる一手。

その一手が、やがてこの国全体を揺るがす壮大な物語の序章になることを、まだ誰も知らなかった。

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