第2話

転生してから、五年という月日が流れた。

元大賢者アルフォンス、現リアム・アシュフィールド(五歳)の生活は、一言で言って「忍耐」であった。


昼間、俺はこれまで通りアシュフィールド男爵家の「出来損ないの三男」を演じ、夜になると屋敷を抜け出してエラーラとの密会を重ねる。それが俺たちの新しい日常となった。


最初の数日間、俺は彼女に魔法を教えなかった。

その代わりに、俺はただ彼女に食事を与え、話を聞いた。ボロボロだった服を、俺がこっそり屋敷から持ち出した上質な布で繕ってやり、もつれていた髪を櫛で梳かしてやった。

これは、儀式だ。

俺と彼女の間に、絶対的な信頼関係…いや、|主従関係を築き上げるための、必要な手順だった。飢えと孤独の中にいた彼女にとって、無償で与えられる温もりと肯定が、どれほど強力な「呪い」となるか。元大賢者である俺は、人の心の脆弱性をよく知っていた。


そして、七度目の夜。

場所は、孤児院の裏手にある、普段は誰も寄り付かない古い森の奥深く。月明かりだけが差し込む小さな広場で、俺たちは向かい合っていた。


「エラーラ。今日から、本当の修業を始める」


「はい、師匠マスター!」


俺の言葉に、エラーラは緊張と期待が入り混じった表情で、力強く頷く。その翠色の瞳には、数日前の怯えの色はもうない。ただひたすらに、俺への信頼が宿っていた。



これならば、俺の教えを余すことなく吸収してくれるだろう。


「まず、君の『力』を見せてほしい。いつも、君が『呪い』だと思っていた、その力を」


「え…? で、でも、あれは…」


「いいから。僕が見たいんだ」


俺が真っ直ぐに彼女の目を見て言うと、エラーラは戸惑いながらも、こくりと頷いた。


彼女は目を閉じ、何かに必死に集中しているようだった。すると、彼女の周りで不可解な現象が起き始める。足元の小石がふわりと浮き上がり、近くの木の葉がざわざわと激しく揺れる。彼女の感情の高ぶりに呼応するように、魔力マナが暴走しているのだ。


「…っ、ご、ごめんなさい…! やっぱり、私には…!」


パニックに陥りかけたエラーラが目を開け、謝ろうとする。俺はそれを手で制した。


「謝るな。よく見せてくれた。――やはり、君は本物だ」


俺の言葉に、エラーラはきょとんとする。


「エラーラ。君が今まで操っていたのは、魔法じゃない。それはただ、君の身体から溢れ出しているだけの、純粋なエネルギーの奔流だ。例えるなら、決壊したダムから流れ出る濁流と同じ。これでは、何かを成すどころか、自分自身を傷つけるだけだ」


俺は地面に落ちていた木の枝を拾い、地面に簡単な図を描いてみせる。


「魔法とは、術者の明確な意志によって、体内の魔力マナを制御し、特定の形を与えて現象を発現させる技術のことだ。意志なき力は、ただの暴力でしかない」


「いし…?」


「そう。まず君がやるべきことは、ダムを修理し、水門の開け閉めを覚えること。つまり、自分の中にある魔力の流れを、その存在を、はっきりと認識することだ」


俺は彼女の前に座り、自分の手のひらを彼女に見せた。


「目を閉じて。そして、自分の身体の内側に意識を向けるんだ。血の流れ、心臓の鼓動、呼吸の音…。そのさらに奥にある、温かくて、ピリピリするような『何か』を感じてみて」


エラーラは言われた通りに、おずおずと目を閉じる。

最初は、何も感じられないようだった。彼女の眉間に、微かにしわが寄る。彼女の心の中には、まだ自分の力に対する恐怖が根付いている。それが、魔力の知覚を阻害する精神的な壁メンタルブロックとなっているのだ。


(仕方ない。少しだけ、近道させてやるか)


俺はエラーラの小さな手に、自分の手をそっと重ねた。そして、俺自身の魔力を、針のように細く、ごく微量だけ彼女の体内へと流し込む。それは、彼女の魔力を刺激し、その在り処を教えるための道標だ。


「!?」


その瞬間、エラーラの身体がビクッと震えた。彼女の閉ざされた瞼が、驚きに小刻みに震える。


「な、にか…あったかいものが…」


「それが君の魔力だ、エラーラ。君だけの力。呪いなんかじゃない、君という存在の一部だ。怖がらずに、もっとよく感じてみて」


俺の導きによって、彼女はついに自分自身の魔力を知覚した。一度コツを掴めば、あとは早かった。彼女の才能は、俺の想像すら遥かに超えていた。


「すごい…! わかる…! 身体の中を、ぐるぐる回ってる…!」


歓喜の声を上げるエラーラ。その顔は、生まれて初めて美しいものを見た子供のように、輝いていた。


「よし。じゃあ、次の段階だ」


俺は手を離し、少しだけ距離を取る。


「今感じているその魔力を、ゆっくりと、右の手のひらに集めてごらん。慌てなくていい。泥水を掬い上げるように、そっとだ」


エラーラは大きく深呼吸をすると、再び目を閉じ、集中した。

彼女の右手に、徐々に魔力が集まっていくのが俺の魔力視マナサイトにはっきりと見えた。最初は不安定に揺らめき、霧散しかけてはまた集まりを繰り返す。


そして――


ポッ、と。

エラーラの手のひらの上に、小さな、小さな光の玉が生まれた。

それは、蝋燭の炎よりも頼りなく、今にも消えてしまいそうに明滅している。だが、それは紛れもなく、彼女が自身の意志で生み出した、生まれて初めての魔法だった。


「あ…」


目を開けたエラーラは、自分の手のひらの上の光を見て、息を呑んだ。

暴走するだけの力じゃない。気味の悪い現象じゃない。

それは、ただただ、美しかった。


「できた…」


彼女の翠色の瞳から、ぽろり、と一筋の涙がこぼれ落ちた。

「私にも…できた…!」

光の玉を胸に抱きしめるように、彼女は声を上げて泣き始めた。それは、悲しみの涙ではなかった。呪いが解けた喜びと、自分を肯定できた安堵の涙だった。


俺はその光景を、静かに見つめていた。

(初日で魔力を知覚し、簡単な発光現象まで成功させるとはな…常軌を逸している)

普通の人間なら、魔力を「感じる」だけで数ヶ月はかかる。この才能は、もはや罪深いレベルだ。


俺は泣きじゃくるエラーラの頭を、ポンと軽く撫でた。


「よくやったな、エラーラ。君は最高の弟子だ」


「…っ、はい…! マスター…!」


最高の駒が、最高の形で動き始めた。

今はまだ、小さな光しか灯せない。だが、いずれこの光は、世界を照らす太陽となるだろう。

そして俺は、その太陽が作る最も濃い影の中で、静かに笑うのだ。


――この世界の本当の支配者は、誰なのかを思いながら。

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