革命の人形姫

G. Velskin

第一部 消えた勅書

序章 ロディナの惨劇



 ロディナの空は、あの日も曇っていた。

 灰色の雲が低く垂れ込み、港の水面は鉛色に沈んでいた。凍てつく風が帆柱を鳴らし、濡れた石畳に鈍い光を落としていた。

 純白の旧王城は、政庁としてその威容を誇り、曇天の下でなお白く浮かび上がっていた。尖塔の先に絡みついた霧が、まるで王国の過去を隠す帳のように揺れていた。

 広場には兵士の靴音だけが響き、遠くで港の鐘が重く鳴った。


 ラースローは、臨時の指揮所から市場を見下ろしていた。

 市民たちは整然と並び、手作りの布旗を掲げていた。

 イニス語で書かれた「自由」「尊厳」「税の見直し」といった言葉が、風に揺れていた。


 歌声もあった。古い民謡を静かに歌う声が、広場に広がっていた。

「暴動の兆候はありません」

 副官が報告する。

「武器の所持も確認されていません。集会は平和的です」

 ラースローは頷いた。

 彼の任務は、秩序の維持だった――総督府からの命令は「抗議活動が拡大する前に、軍を展開し、広場を封鎖せよ」。

 彼は命令に従い、兵士たちを広場の周囲に配置した。

 市民たちは不安げに兵士を見つめたが、挑発はなかった。

 ラースローの胸には重たいものが沈んでいたが、このまま何事も起きずに終わるだろうという謎の安堵感があった。


 ラースローの脳裏に、遠い故郷の光景がよぎる。

 クモーチバーニャ――山あいに抱かれた鉱山町。冬は長く、朝は鉱煙と霧が谷を覆い、石畳は煤で黒ずんでいた。

 父は坑道に潜り、金鉱石を砕く音を一日中響かせていた。母は鋳造所で働き、貨幣を打つ槌の音が家まで届いた。

 家は質素だった。低い天井と煤けた壁、暖炉の火だけが家族を照らしていた。夕餉には黒パンと豆のスープ、時折、母が持ち帰る銅片が机の上で光った。

 幼いラースローは、理不尽な暴力に抗うために拳を握った。鉱山町の子どもたちの喧嘩は、誇りを守るための戦いだった。

 その誇りが、彼を士官学校へと駆り立てた。秩序を守る力を得るために。


 小一時間ほど経ったころだろうか。


 市民たちは一通り主張を叫び終えたのか、徐々に解散に向けて一人、また一人と帰っていったが、歌声は続き、お祭りの様相を呈していた。

 ラースローはわずかに息を吐き、胸の重さが少しだけ和らぐのを感じた――その瞬間だった。

 遠くで、硬い音が響いた。

 蹄の音だ。

 最初は一拍、次に二拍、やがて重なる音が石畳を叩き、広場の空気を震わせた。

 ラースローは顔を上げる。視線の先、曇り空の下で、騎兵の影がゆっくりと近づいてくる。ラースロー配下の騎兵隊である。その先頭にはヴェルナー卿がいた。誇らしげに馬上で胸を張り、軍刀を抜き放っていた。

 彼らに命令を出していない。差別主義的なヴェルナーは、今回の作戦に連れてきていない。

 だが、彼らは軍刀サーベルを抜き、群衆の前に並んだ。

「何をするつもりだ」

 ラースローは副官に命じて伝令を走らせ、直ちに後退するように命じた。

 だが、ヴェルナー卿は応じることなく、騎兵たちは広場の端に並ぶ市民たちに向かって、ゆっくりと前進を始めた。


 市民の歌声が止む。

 布旗が揺れる。

 若者が後ずさりし、母親が子どもを抱き寄せる。

「止まれ!」

 ラースローは叫んだ。

 だが、騎兵は止まらなかった。

 次の瞬間、突撃の号令が響き、蹄が石畳を打ち鳴らした。

 市民たちが悲鳴を上げ、逃げ惑う。

 旗が踏み潰され、歌が断ち切られる。

 誰かが倒れ、誰かが叫ぶ。


 ラースローは軍刀サーベルを抜いて部下に指示を飛ばす。

「広場の包囲網を開けろ!市民の保護を優先しろ!撃つな、撃つんじゃない‼」

 だが、兵士たちは混乱していた。

 騎兵の突撃に巻き込まれた市民が、怒りに駆られて石を投げ始める。その石が兵士に当たり、銃が構えられる。

「撃つな!撃つんじゃないぞ!」


 そのとき、伝令が駆け戻ってきた。

「ラースロー少佐、モーリツ執行官からの命令です。広場の制圧を優先せよ。武力行使を命ずるとのことです」

 伝令が「武力行使を命ずる」と告げた瞬間、ラースローの胸の奥で何かが軋んだ。


(なぜだ……なぜ、ここまでしなければならない?)


 彼は軍人だ。命令には従わねばならない。

 それが軍の規律であり、国家の秩序を守るための鉄則だ。

 だが、目の前にいるのは武装した敵ではない。家族連れの市民、老人、子どもたち――彼らはただ、声を上げているだけだ。


(私は、誰のために剣を持ったのか?)


 ラースローは自問する。軍人としての誇りは、弱き者を守ることにあったはずだ。

 だが今、命令は「制圧」だ。市民の安全よりも、秩序の維持が優先される。もし命令に背けば、軍の規律は崩れ、混乱が広がる。だが、命令に従えば、無辜の市民が傷つく。


(どちらを選んでも、私は誰かを裏切ることになる……)


 さらに、ヴェルナー卿率いる騎兵隊は、彼の命令を無視して勝手に動き始めている。部下の中にも、貴族派の兵士たちはヴェルナー卿に従い、ラースローの指示を聞こうとしない者もいる。


(私は本当に指揮官なのか? それとも、ただの操り人形か?)


 市民の叫び、兵士たちの混乱、騎兵の蹄音――すべてが渦巻く中で、ラースローは自分の声が遠くに聞こえるような感覚に囚われる。手の中の軍刀サーベルが重い。柄を握る手が、かすかに震えている。


(私は、どこまで命令に従えばいい? どこまで自分を裏切ればいい?)


 彼の脳裏には、かつての教官の言葉がよぎる。「軍人は命令に従うものだ。しかし、命令が人としての誇りを踏みにじるとき、お前はどうする?」

 ラースローは答えを持たない。ただ、目の前で泣き叫ぶ市民の姿が、彼の良心を責め立てる。


(私は、守りたかったはずだ。だが、今の私は――)


 そのとき、広場の空気が一変した。


 騎兵たちの蹄が石畳を打ち鳴らし、市民の列へとじわじわと迫っていく。

 誰かの悲鳴が、遠くで上がった。ラースローの耳に、子どもの泣き声が刺さる。


 思考が一瞬、空白になる。


 足がすくみ、手の中の軍刀が重く感じられる。

 だが、次の瞬間――目の前で、ヴェルナー卿の騎兵が市民の列に突撃しようとした。


 ラースローは、反射的に声を張り上げていた。

「ヴェルナー卿、部隊を止めよ!これは命令だ!」

 ヴェルナー卿は馬上で振り返り、冷笑を浮かべるだけで、命令を無視して前進を続ける。

 ラースローは副官を通じて再度、伝令を走らせる。


「ヴェルナー卿、直ちに行動を停止せよ。これは総督府警備隊隊長の名において発する正式な命令である!」


 しかし、ヴェルナー卿は再び無視し、騎兵たちに突撃の準備を命じる。

 市民の悲鳴が広がり、兵士たちの間にも動揺が走る。

 ラースローは、部下たちの混乱と恐怖を感じ取る。

 このままでは、規律が崩壊し、さらなる流血が避けられない。


 ラースローは深く息を吸い、軍刀サーベルを鞘に収め、静かに小銃を手に取る。

 その動作は、決して衝動的ではなく、苦渋と覚悟に満ちている。

 ラースローは、周囲の兵士たちに向き直り、はっきりと宣言する。

「聞け!ヴェルナー卿は度重なる命令違反を犯した。

 この場において、軍規に則り、命令違反者を処断する!」


 兵士たちは息を呑み、誰もがその場に釘付けになる。

 ラースローは、最後にもう一度だけヴェルナー卿に叫ぶ。

「ヴェルナー卿、これが最後の命令だ!部隊を止め、武器を収めよ‼」

 しかし、ヴェルナー卿は鼻で笑い、馬を進める。


 ラースローは、静かに小銃を構え、引き金に指をかける。

 その手はわずかに震えているが、視線は決して逸らさない。

「……命令違反につき、ここに処断する」

 その声は、広場の喧騒を切り裂くように、静かに、しかし確かに響いた。


 一瞬の静寂。

 ラースローは、ためらいなく引き金を絞る。

 乾いた銃声が、曇り空に吸い込まれる。

 ヴェルナー卿は馬上で崩れ落ち、騎兵たちは動揺し、馬を止める。


 ラースローは、銃口を下ろし、静かに目を閉じる。

 その手は、わずかに震えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る