第十章:出会いと出会いと出会いの季節

三月。卒業式を控えた数日前。

ついに、さやが学校に来なくなった。


風邪かと思った。でも違った。


「なんか……ストーカーに遭ってるらしくて」

「家に手紙とか届いてたって。学校には言わないでほしいって……」

「高校も、結局違うとこ行くらしいよ。かわいそうに」


誰かが話していた。俺のすぐ後ろで。


背筋がゾッとした。

思い浮かんだのは、たった一人──



Aだった。



~~~



タカネも、あの日から塞ぎこんでいる様子で、

タケルも、あの日から不登校気味になっているようだった。


……Aのせいか?

いや、俺が悪いのかもしれない。


優柔不断さが、自分だけでなく、他人をも傷つけた。


何度目か分からない、後悔。



~~~



卒業式当日。体育館に整列している間、

俺はずっとAのことを盗み見ていた。


笑ってた。先生と話してる時も、クラスメイトと記念写真を撮るときも。


でも、ふと目が合うと──

笑ってなかった。


「んしょと……やっぱ、あんたの隣が一番落ち着くね」


式が終わって、クラスでの最後のホームルーム。

皆がわいわい喋ってる中で、Aは俺の席の隣に座って、言った。


「高校でも、そうなるでしょ?きっと、いや絶対に」


「……」


「ほら、手。出して」


「なんで」


「いいから。出して」


言われるがまま、手を差し出すと──

Aはそっと、俺の手に何かを握らせた。


小さな、銀色の……鍵。


「これ、あたしの部屋の合鍵」


「は?」


「渡すの、高校生になってからにしようと思ってたけど……

なんか、今日がいい気がして」


「お、お前さ……」


「ねぇ、あんたの家の合鍵が欲しいとか、あたし言わないよ?」


Aの目が、じっと俺を射抜く。

笑ってる。だけど目は、笑ってない。


「ただ、あたしの方の鍵は、あんたに渡すの。

だから、いつ来てもいいよ。いつでも、何があっても、ね?」


「……」


「無くさないでね?あんただけの特権なんだから」


心臓が冷たくなった。

なのに手のひらだけが、じっとり汗ばんでいた。



~~~



そして、卒業式が終わった夜。


Aから、またLINEが来た。


📱【A】

《ねぇ、明日ヒマ?》

《会いたいなーって思ってさ》

《最後に一個だけ、言いたいことあるんだ》



断る理由がなかった。

いや、本当は行くべきじゃないってわかってた。

でも、俺は──


行った。


~~~


Aの部屋。何度も来たことがある場所。

でも、その日だけは何かが違ってた。


香水の匂いがきつかった。

空気がぬるくて重たくて、息苦しかった。


冷たく、暑く、じとっとしていた。


ベッドの上に、Aが座っていた。


「来てくれてありがと」


「それで、言いたいことって」


「うん。耳穴かっぽじって聞けし」


Aはゆっくりと立ち上がって、俺の目の前に立った。

そして、ほんの少しだけ背伸びして──

抱きついた。


「──好き。大好き。

全部、全部、あんたじゃなきゃダメなの。

他の誰にも、触られないで。

笑わないで。優しくしないで。

あたしのことだけ、見て。

お願い。

ずっと、ずっと、隣にいてよ──」


その声は震えてた。

泣いてた。

でも、あまりにも──美しかった。怖いくらいに。


俺は、言葉が出なかった。

胸がつかえて、息すら苦しかった。

喉が震え、肺が潰れそうだった。


Aはゆっくり腕を解いたあと、俺の顔を覗き込んで言った。


「……ふふ。返事は高校入ってからでいいよ」


「……なんで」


「だって、あんたが断ったら、あたし──どうなっちゃうか、わかんないもん」


そう言って、笑った。

冗談みたいなトーン。

だけど、目だけが、真剣だった。


そして、ふと目に入るのは机の上に置かれた、あの鋭利なカッターナイフ。





~~~






帰り道。

ポケットの中の合鍵が、ずっしりと重かった。


この鍵が開けるのは──部屋じゃない。

檻だ。


俺は、Aという名の牢屋の中に、片足を……いや両足で踏み入れていた。


ずっしりと重い、この銀色の鍵。

それは罰か、それとも救いか……。


……いや、どっちでもいいか。


決めた。


もう、あいつからも、本音からも逃げるのはやめだ。

見て見ぬふりをして、傷つけて、傷つけられて。

そんな優柔不断な俺は、今日で終わりにする。






~~~





Aの部屋のドアをもう一度開けた俺は、あいつに真っ直ぐ向き合った。

逃げない。お前の全部から。俺の弱さからも。

震える声で、でもはっきりと、俺の気持ちを伝えた。


その後のことは、あまり覚えていない。

ただ、熱に浮かされるように、俺たちは一つになった。


……静まり返ったベッドの上。

部屋に響くのは、生々しいリップ音と、時折混じる、肉を食むような小さな音だけだった。



ちゅっ、じゅるっ……かぷっ、と。



Aは、まるで餓えた獣みたいに、俺の身体に夢中で歯を立てていた。

首筋、肩、鎖骨、腕、腹、胸、大腿、足先……。

これは自分のものだと、世界に刻みつけるように。何度も、何度も。


気づけば、俺の全身はAがつけた痕で、赤く腫れあがっていた。

熱を持って、ひりひりと痛む。


「……いってぇ」


小さく漏らした声に、Aは俺の上で顔を上げて、とろりと蕩けた目で満足そうに笑った。


その顔を見て、ふと思ったんだ。


これが、Aがずっと感じてきた痛みなのかもしれない、と。


俺の優柔不断さが、Aの心をずっと噛み砕いてきた。

俺が他の誰かに向けた、ほんの些細な笑顔が、Aの心を傷つけてきた。

その無数の痕が、今、俺の身体に刻まれている。



──なら、いい。

この痛みごと、全部受け止めてやる。



もう、この痛みからも、お前からも、絶対に逃げない。

逃げたくない。



俺は痛む身体で、Aを強く抱きしめ返した。

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