第12話 ピンチのち大ピンチ

「──輩!紫音先輩!」


 目をうっすら開けると、見慣れた後輩の輪郭を捉えた。


「あまり、揺さぶらないでくれ。頭に、響くんだ」


 一度目をギュッとつぶり、そのままゆっくり体を起こす。太い針で刺されているかのような痛みが頭の右側に走り、思わず顔をしかめた。

 辺りを見回すと、見覚えのある茶色の壁と赤く四角い椅子が見えた。どこからか、あんこの甘い匂いも漂ってくる。そして隣からはすすり泣く声が。


「先輩……!良かった、目を覚ましてくれて……」


 かすれ声の葵は涙と鼻水でぐちょぐちょになっていた。


「泣くなよ。ちょっと倒れてただけじゃないか」

「うぐっ、でも、でも……」


 全く泣き止む気配のない葵の頭に、紫音はそっと手を置いた。まるで本当の弟のようだなと我ながらおかしな思いを抱えつつ、後輩の気持ちが落ち着くのを待った。


「泣き止んだか?」

「はい。紫音先輩は、大丈夫ですか?」

「見ての通りさ。それと、呼び方」

「あ、ごめんなさい」


 イタズラがバレた子どもみたいな表情でへへっと微笑む葵を見て、とてつもなく安心した。


「目、覚ましはりましたか?」

「あ、女将さん。もう大丈夫です」

「それはようござんした。何か甘いものでも用意しましょうか?」

「いいんですか? それでは遠慮な──」


 甘いものを食べる口になっていた紫音を二人の忙しない足音が遮った。


「紫音、大丈夫か?」

「ああ。なんともない」


 親指をグッと立てて見せると、二人はほっと胸を撫で下ろした。

 しかしすぐに、険しい表情へと戻った。


「ただ、まずいことになったんだ」

「まずいこと?」

「笠木が、武士に拘束されてしまったの」 

「っ!?」


 それは考え得るシナリオの中でもかなりまずい部類の報告だった。せっかく掴んだ第2調査団の手がかりなのに、このままでは何も聞き出せなくなってしまう。それに、何かしらの資料に人相や名前が残ってしまうのも、あまりよろしくはない。

 いてもたってもいられなくなった紫音は甘味を用意しようとしていた女将に「また今度頼む」とだけ告げると、すぐ店を後にした。


 和泉に先導してもらい、笠木が捕らえられているという牢屋敷にたどり着いた。町の外れにあるその壁はひどく痛んでおり、辺りには鼻を突き刺すような異臭が微かに漂っていた。およそ人がいられるとは思えない環境が想像される中、入り口に立ち塞がっている武士に笠木の件を伝えた。


「なに? あの男を返してほしいだ?」


 武士の上げた素っ頓狂な声に、道行く人の意識が留まった。


「はい。あの人は私たちの友人なんです。普段はあんな人じゃありません。きっと悪い気にでも触れてしまったんでしょう」


 それらしい言葉を並べ立てるが、武士は眉をひそめるばかりであった。


「悪いが、その願いを叶えてやることはできん」

「で、でも!」


 負けじと食い下がろうとすると、武士は柱を思い切り叩いた。


「しつこいのう! あの男は出さねえと言うとろうが!」


 張り詰めた空気に反応した他の武士たちが続々と集まり、紫音たちを囲い始めた。近くにいた町人たちがなんだどうしたと不安そうな声色をにじませるなか、刀に手を掛ける音がことさらに大きく聞こえた。


「な、なあ堀越、和泉。二人ならなんとかならないか?」

「切り抜けられはすると思うけど……」

「多少の傷は覚悟しないといけねえな」


 堀越が拳をぐっと握ったそのとき、思いも寄らない人物が通りかかった。


「なんじゃ騒がしい」

「と、殿!?」


 武士たちはいっせいにひざまずいた。紫音たちも合わせてひざをつく。


「ん? こやつらは……」


 目を向けられた途端、心臓が文字通りどくんと跳ね上がった。

 信長が距離を詰めてくるにつれて、心臓の音もどんどん大きくなっていく。そうして目の前に来る頃には、緊張が最高潮に達していた。

 気が強く、周囲から畏怖されていると言われるこの男がどう出てくるのか。それによって身の安全が大きく左右されることになる。その上、歴史改変につながるような事態は避けなければならず、下手な行動は許されない。


 地面についた拳に自然と力が入る。全身がこわばりながら様子をうかがっていると、やがて信長は「ふん」と鼻を鳴らし、ゆっくり口を開いた。


「面を上げよ。なにゆえ、かような場所にいるのだ?」

「はっ。先ほどここに捕らえられた者を引き取りに参った所存です」

「なるほどのう。そやつが『尋ね人』なのか?」

「さようでございます」


 そう答えると、信長は顎に手を当てて何やら考える素振りを見せ始めた。

 変に信長の気に触れれば、笠木の身柄を奪還するどころか、紫音たちまで捕まりかねない。はやる気持ちを抑え、静かに次の言葉を待った。


「よし、こやつらに引き渡せ」


 信長の命令はその場にいた武士たちの目を文字通り丸くさせた。


「し、しかし殿。よろしいのですか?」

「構わぬ。わしは約束を守る男じゃからの。がっはっは!」


 豪快な笑い声につられて、武士や町人たちも頬を緩ませる。その多くはもっぱら作り笑いみたいなものだったが、それでもピンと張り詰めた緊張の糸を緩ませるには十分だった。

 ひとしきり笑った信長は、突如人が変わったかのように「じゃが、」と低い声で続けた。


「ひとつ条件がある。この町から早急に失せよ。二度と儂の足元で騒ぎを起こすでない。よいな?」


 その顔はまさに般若を彷彿とさせるような、威圧的で恐ろしい権力者の表情そのものだった。民主主義が主流になった現代の政治ではおよそ見ることのできない、拒否権無き問いかけに思わず体がすくんでしまう。「はい」という二文字を発するのが精一杯だった。


 思い通りの解答を聞いて満足げに頷いた信長は、家臣を連れてどこかへ行ってしまった。姿が見えなくなるまで見届けた後、紫音らは重くなった腰をよっこらせと持ち上げた。

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