小悪魔後輩がぐいぐい過ぎて困っています…

日向陸

第1章 ぐいぐい侵略編

第1話 ぐいぐいの法則

 東雲悠斗しののめゆうと、大学三年。人生で最も得意なことといえば、周囲との摩擦を避けて生きていくことぐらい。

 恋愛? そんなものは、俺とは一生縁のないファンタジーだ。


 その平穏も、最近は音を立てて崩れ去っている。


 天野咲良あまのさくら。低身長かつ小動物のように愛らしい顔立ち。今年の春、突然サークルに現れた天使。

 その柔らかな笑顔は誰もが認める正統派の美人だ。


 そんな天使は…悠斗にとって、「」であった。





 悠斗はサークル室で、動画編集に集中していた。ちなみに、サークルは、放送研究会である。


 ヘッドホンをつけて画面と睨み合っていると、突然後ろから、ふわりと甘い匂いが包み込んできた。


「せーんぱい♡」


 咲良は、ヘッドホンをずらし、耳元で囁いてくる。彼女の吐息が耳にかかる。

 悠斗の椅子の背もたれに顎を乗せ、まるで猫が獲物を狙うように、彼の顔を覗き込んでいる。


「ひっ……!」

悠斗は情けない悲鳴を上げた。



「えへへ、集中してますね。真面目な先輩も素敵です」


 彼女は、からかうような、それでいてどこか熱っぽい声でささやく。その視線は悠斗のPC画面ではなく、彼の横顔に注がれていた。



「さ、咲良……頼むから、もう少し離れてくれないか? 周りの目もあるし、俺は今、集中してるんだ。」


 すでにサークルの同級生たちはこちらに生暖かい視線を送っている…

 悠斗は必死に冷静を装うが、耳の先が熱を持っているのを自覚していた。


「えー? 誰も見てませんよ。大丈夫、誰も先輩と私がイチャついてるなんて思いませんから。」



 悪びれる様子もなく、咲良は悠斗の肩に、こてん、と自分の頬を押しつけてきた。悠斗の体は瞬間的に硬直し、全ての思考がストップする。


(こいつまたからかって…)


 悠斗の内心の悲鳴とは裏腹に、咲良はさらに追い打ちをかける。


「ねぇ先輩。先輩からいい匂いがするんですけど、これ、何のシャンプーですか?もうちょっとだけくんくんしますね。」



 彼女は本当に、彼の匂いを嗅ぐように深く息を吸い込んだ。その度に、長い髪が悠斗の頬をくすぐる。


「く、くんくんするなっ! 頼むからやめろ! パーソナルスペースというものを理解してくれ!」


「エヘヘ。」咲良は楽しそうに笑う。


「先輩、かわいいですね♡」


 そう言って彼女は、悠斗の肩を軽く叩いた。しかしその手はすぐに離れず、そのまま、彼の鎖骨のあたりを指でそっとなぞる。


「私、先輩の隣が一番落ち着くんです。もうちょっとくっついちゃ、ダメですか?」


 瞳を潤ませて上目遣い。この一連の流れが、咲良の黄金ルートだった。無邪気なふりをして相手の心の壁を破壊し、反論できない状況に追い込む。



 悠斗は頭を抱えた。「……いや、ダメじゃないけど……その、近い……」



「知ってます。わざと近づいてますから。」咲良はニヤリと笑い、やっと椅子から体を離した。


 ホッと息をついた悠斗だが、咲良はすぐに彼の隣に座った。

「じゃあ、これでいいですか?」


 そう言ってこちらに体を乗り出す。上半身は悠斗に近づき、距離はさっきとほとんど変わらない。しかも、今度は悠斗から目を逸らすことなく、じっと見つめてくる。



「先輩、疲れてますよね。目がトロンとしてます。……もしかして、私の顔に見惚れちゃってるんですか?」


「ち、違う! 資料を見てたんだ!」


(トロンとしているのはどっちかといえば君だろうが!)


「ふふ、そんな怒らなくても。ねぇ、先輩。私、今日クッキーを持ってきたんです。疲れてる先輩にだけ、特別に『あーん』してあげますよ」

 咲良は鞄から、リボンで可愛くラッピングされたクッキーを取り出した。



(来た。この『先輩にだけ特別』アピールも、彼女の常套手段だ! クッキーはきっと周囲にも配っているに違いない!)


 悠斗は心の中で全力でツッコミを入れるが、咲良はすでにクッキーを一つ取り出し、彼の口元に近づけていた。


「さ、あーん」


(ダメだ! こんなサークル室のど真ん中で、「あーん」なんてしたら、明日から『東雲と天野は付き合っている』という噂が定着してしまう!)


 そうなるとサークルの男どもからの視線がとんでもないことになってしまう…



 悠斗は必死に首を横に振った。「い、いらない。自分で食べるから、置いておいてくれ。」


「えー、ダメですよ。これは私の気持ちなんです。受け取ってくれないと、私、泣いちゃいますよ?」


 咲良の瞳が、本当に涙でうるうるし始める。悠斗は観念した。彼女が泣き出すと、周囲の視線が集中する。そうなると、彼は『可愛い後輩を泣かせた悪い先輩』になってしまうのだ。



「わ、わかった! わかったから、頼む、泣かないでくれ!」


 悠斗は、秒で降参した。

 彼は観念して、小さく開いた。その口に咲良がそっとクッキーを押し込んだ。


 サクッと軽いクッキーは、口の中で甘い香りを放つ。味なんてほとんど感じられなかった。


 それどころか、咲良の指先が彼の唇に触れた感触が、脳裏に焼き付いて離れない。

「ふふ。かわいい顔。ありがとうございます。先輩」


 咲良は満足そうに微笑んだ。そして、立ち上がろうとしたその時。


「あ、先輩、ついちゃってますよ。」



「ああ、俺ティッシュ持ってるから。」


 悠斗が慌ててポケットを探ろうとした、その時だった。


 咲良は、僕の唇に触れ、そのまま、その指を……


「んっ」


 ペロリ、と舐めた。



「あぁっ……!」

 悠斗は椅子から落ちそうになった。


「ふふっ。先輩、顔、真っ赤ですよ」


 小悪魔は、最高の笑顔でそう言い残し、颯爽とサークル室を出ていった。

 悠斗は、彼女のいなくなった部屋で、自分の心臓が煩い鼓動を上げているのをただただ聞くしかなかった。


(ぐいぐい過ぎる。困る。本当に、困る!)



 これはぐいぐい来る小悪魔後輩に、今日も明日も明後日も、絶賛「困らされ中」の先輩の、受難と微かな恋(?)の物語である。

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