第2話 偽りの命と禁書の番人

王宮に戻った僕は、自室でゼフィラスが遺した羊皮紙のメモと、証拠品として持ち帰った『賢者の血石』を机に並べていた。石は工房で感じた微かな振動を今は潜め、ただ不気味な赤色の光をたたえて沈黙している。


『石は血を求める。偽りの命。扉は開かれた』


ダイイング・メッセージ。それは、被害者が命の尽きる間際に遺した、犯人へと繋がる最後の道標だ。しかし、この言葉はあまりに抽象的で、今の僕には暗号にしか見えない。特に気になるのは「偽りの命」という一節。錬金術における生命の創造は、神の領域を侵す最大の禁忌とされているはずだ。


「専門家の知識が必要か……」


僕は重い腰を上げ、王宮の一番奥にある「大書庫」へと向かった。目指すは、通常は閲覧が厳しく制限されている『禁書庫』。そこに、この謎を解く鍵があるかもしれない。


禁書庫の重厚な扉の前には、一人の女性が立っていた。年齢は僕とそう変わらないだろうか。銀縁の眼鏡の奥にある怜悧な瞳が、僕の姿を捉えて鋭く細められる。艶やかな黒髪をきつく結い上げた、いかにも堅物といった印象の女性だった。

「王宮調査官のアレン・クロフォードです。マスター・ゼフィラスの事件調査のため、禁書庫の閲覧許可を」

「お待ちしておりました。私がここの管理責任者、セレスティア・グレイです」


彼女の声は、まるで澄んだ氷のようだった。感情が一切乗っていない、平坦で事務的な響き。彼女こそ、若くしてこの禁書庫の全てを任された、古代文献解読の天才という噂の主だった。

「調査協力は勅命です。ですが、ここの蔵書はアウレリアの『毒』そのもの。扱いを誤れば、国を滅ぼしかねない危険な知識の塊です。くれぐれも、無作法な真似はおやめください」


釘を刺すような物言いに、僕は内心苦笑した。どうやら、現場を嗅ぎまわる調査官というのは、彼女のような学者肌の人間には好かれないらしい。


セレスティアに案内され、僕は禁書庫の中へと足を踏み入れた。そこは、古紙とインクの匂いが支配する静寂の世界だった。天井まで届く書架には、この世のものとは思えない装丁の本がずらりと並んでいる。

「何をお探しですか?」

「『偽りの命』という言葉に心当たりは?」

僕がメモを見せると、セレスティアは一瞥しただけで、その表情をわずかに曇らせた。

「……錬金術における禁忌の一つ、『ホムンクルス』の創造に関する記述かもしれません。ですが、あまりに危険すぎるため、関連文献のほとんどは処分されたはずです」

「残っているものは?」

「数冊だけ、厳重な封印のもと保管されています。こちらへ」


彼女に導かれたのは、書庫の最も奥にある一角だった。そこにある書架だけが、魔法的な光を放つ結界で守られている。セレスティアが複雑な手順で結界を解くと、僕はそこに収められた一冊の分厚い本に目を奪われた。表紙が、まるで人間の皮膚のような質感の革で装丁されているのだ。


「『生命の錬成秘議』。ホムンクルスに関する、現存する最も詳細な記録です」


セレスティアが慎重にその本を机の上に開く。ページをめくると、そこにはおぞましい解剖図や、理解不能な錬成陣がびっしりと描き込まれていた。

「ホムンクルスを創り出すには、核となる『賢者の石』と、膨大な生命力が必要とされます。その生命力をどこから調達するか……この文献には、最も効率的な方法として『生贄』を用いる術式が記されています」

彼女の淡々とした説明に、僕は背筋が寒くなるのを感じた。ゼフィラスの死因は『極度の生命力枯渇』。もし彼がホムンクルスを創り出そうとしていたのだとしたら、その過程で自身の生命力を全て吸い取られてしまった、という可能性も考えられる。


事故死か? いや、それならばあの密室はなんだ?


僕たちが文献を読み解いていると、セレスティアがふと指を止めた。

「……おかしいですね」

「何がだ?」

「このページ、本来なら術式の最終工程が記されているはずなのですが」


彼女が指し示したページは、明らかに他のページと紙の色が異なっていました。巧妙に修復されてはいるが、元あったページが破り取られ、別の羊皮紙で差し替えられているのだ。


「誰かが、意図的にこの部分を奪い去った……?」

セレスティアは眼鏡の位置を直しながら、鋭い目で僕を見た。

「この禁書庫に、私以外の者が無断で入ることは不可能です。結界は破られていませんし、入退室の記録も昨日は私だけでした」

「つまり、君が来るよりも前に、誰かがこのページを破り取っていたということか」


僕の言葉に、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。完璧な管理下に置いているはずの自分の領域を、何者かに汚されたことが許せないのだろう。

「マスター・ゼフィラスが、閲覧許可を得てここを訪れた記録は?」

「……一ヶ月ほど前に。一度だけ」


一ヶ月前。それは、リアムの証言によれば、ゼフィラスが工房に籠りきりになった時期と一致する。彼はこの禁書でホムンクルスの知識を得て、その研究の過程で何者かに殺害された。そして、犯人、あるいは別の誰かが、研究の核心部分であったであろうこのページを奪い去った。


点と点が、少しずつ線で結ばれていく感覚。


「セレスティアさん、引き続きここの調査を。特に、ゼフィラスが他にどんな文献を閲覧したか、徹底的に洗い出してほしい」

「……承知いたしました。調査官、あなたはこの事件をどう見ていますか?」

初めて、彼女の声に事務的ではない、純粋な興味の色が混じった。

「まだ仮説の段階だが」と僕は前置きして言った。「犯人は、ゼフィラスの研究、おそらくは彼が創り出そうとしていたホムンクルスそのものを狙っている。密室を作り、彼の命を奪ったのも、全てはその研究成果を独占するためだ」


僕の推理を聞くセレスティアの瞳が、わずかに揺れた。それは、この不可解な事件の奥に潜む、底知れぬ闇の深さを感じ取った者の揺らぎだった。


禁書庫を後にする僕の背中に、彼女の視線が突き刺さっているのを感じていた。堅物の天才書庫官。だが、彼女の知識は、この事件を解決する上で不可欠な武器になるだろう。僕たちはまだ、この巨大な謎の入り口に立ったばかりなのだ。

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